読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

元コンサルタントな歴史家―ドイツから見た日本

大学で近代日独軍事史を研究する伊藤智央のエッセイ。ドイツと日本に関する批判的な評論を中心に海外生活(留学や移住)の実態をお伝えしています。その際には元戦略コンサルタントとしての経験も踏まえてわかり易くお伝えできればと思います。

【一般化の作法】「日本人は○○だ」vs.「私は私」の妥協点はどこにあるのか

ドイツ ドイツ-生活一般 日本 日本-政治・経済・文化

日本(人・文化)を一般化してしまう発言は、一見誰にでもできるように見えて、多くの問題が隠れています。というのも、安易になされる一般化発言に対しては、「いや、一人ひとりは個性をもった人間だから、個々人を見るべきだ」という反論がすぐに生まれてくるからです。*

*「日本」としていますが、これはどこの国や地域、または性別といったその他の属性でも構いません

しかしながら他方で、個々人を重視するあまり、一般化という行為自体を否定してしまう考えにも問題が存在します。

では一体どうすればよいのでしょうか?以下では、わかり易いように前者のスタンスを一般化思考、後者を個性主義的思考と名付けながら整理して考えてみることで、当たり前に思われていてもなかなか文章化されない大切な事柄について明らかにしていきます。

過度な一般化にならないための基本的作法

一般化をする際にたいていは、自分の今までの経験や見聞きした話を基にします。

そのため、一般化の際に参考としたサンプルに問題があるとき、説得力が生まれずそれとは当てはまらない例が容易にもち出されてきます。

すなわち、より多くの人が納得できるような結論を導き出すためには、十分なサンプル数で、かつそれを、関連する他の属性(地域・性別・年齢etc.)を横断するように採取する必要があるということです。

サンプルの均等性について例を挙げると、日本人男性に関する発言において、ある程度の年齢層の幅や教育の程度、出身地域がまんべんなく含まれるように注意するということです。

アヒルのひよこの集団

個人主義的思考の問題点

しかしサンプルに問題がない場合においてもなお、個人主義的思考(「一人ひとりは個性をもった人間だから、個々人についてのみ語ることができる」)のように、個々人は異なった存在なので一般化は出来ないという原則的スタンスを取る人もいます。しかし、この発言は一面的かつ生産的ではないと考えます。

①人間の一面しか捉えていない

個人は無意識のうちに学校教育だけではなく、地域社会における交わりやマスメディアという外からの刺激によってものの見方を形成していきます。社会によってものの見方が形成されたということは、個々人を超えて集団として共通するような要素を個々人がもつことになるということも意味しています

それは、多数派とは違ったような生き方をしている人にも当てはまります。たとえ同様の経験を持った人が少ないとしても、比較可能な経験を持った人が少なくとも存在しているからです。そうした集団の中では多かれ少なかれ何らかの共通性があっても不思議ではありません。

確かにそれでも各人の経験に細かな差異は残るために、個々人が全く同じになることはありません。しかし、同じようなインプットがあれば、特定の領域に関して似たような思考様式になることは考えられます。

つまり個々人は、ある領域では何らかの属性で括った場合に他者と共通する要素をもっていると同時に、別の領域では細かな経験や性格の差異によって生じたユニーク性をもっているのではないでしょうか。*

*月並みなことですが、なかなか意識されない場合も多いので文章化しています

そうなったときに、個々の差異のみを取り上げて、共通性に目をつぶるのは一面的な人間観でしょう。

②抽象的思考を封じ、思考を非生産的にする

そして、個々の差異を強調する思考はより大きな危険も秘めています。それは思考停止という現象です。

人同士の比較や一般化がどうせできないと考えてしまうことは、個を超えた集団の性質について語ることを止めてしまうことにつながります。「日本人」「日本文化」「日本」という言葉をもう使えないとすると、どうやってある一定の政治集団の中に存在する人間の行動様式を分析できるというのでしょうか。*

*それは「日本」だけではなく、例えば「~地域・村」や「~生まれの世代」といったすべての人間集団にも当てはまります。

そして、もし集団を分析する必要がないというのであれば、自分や相手の個人的な話以外何も語ることができなくなります。相手が話す内容は、出来るとしてもせいぜい自分の経験と比較するのみで、それを聞き手と話し手以外の第三者にも納得できる形で消化されることはありません。一般化できないということは、第三者にも当てはまるような形で物事を抽象化できないということでもあるからです。

すなわち、個々人が自分語り(自分の信念や経験の吐露)という狭い仕切りの中に閉じこもるということです。

それは、目に見える具体的な事象にしか目を向けない思考停止と同義です。抽象的な思考はできなくなります。

一般化思考は綱渡りのバランス感覚が必要

どのような括りで集団を捉えようとも、その集団の行動・思考様式を理解しようとする限り、各人の個性を取りこぼしてしまうことはある程度免れ得ません。その意味で個々人の間の共通部分を探るということは、個を超えた集団という抽象的な対象に考えを寄せる際に不可欠な作業となります。

しかし一般化することは、容易に見えますが実際は危険かつ困難な作業です。

一般化という作業は綱渡りにも似てバランス感覚が特に求められる

画一化という危険性

個性主義的思考が直感的に感じて批判しているように、一般主義的思考には画一化の危険が常に存在しています。それは集団の構成員すべてを一つの記述でもって単色で塗りつぶしてしまうことです。これは、あるテーマを論ずる上で重要と考えられる差異を見逃してしまうことにもなり的外れな結論を導き出すとともに、また政治的・社会的な道具へと転用されることも意味します。*

*前者の例としては、トルコ人について語るときに、身近なドイツに移民してきたトルコ人だけを見て判断するのは間違った結論を生むことになりうるということが挙げられます。ドイツにいるトルコ人は多くが農村地域出身であり、都市部の知識階級は少ないことから、移民してきたトルコ人集団はトルコ人全体という母集団を正確に反映していません。

*後者の例としては以下のことが挙げられます。例えば、「難民は犯罪者」というような一般化は政治的な火薬庫でもありますし、それと関連して、「日本人は~だ」という発言も、「~」にあてはまらない人を「非国民」扱いして集団から排除することになります。

一般化の困難さ

そのような危険性を避けるためには、共通性と個性という人間の二面性を常に意識して、集団内の多様性を出来る限り考慮するという緊張感を一般化の際にもつことが大切になります。それによって、納得感を伴わない過度の一般化を避けることになります。

具体的に述べると、冒頭にも述べたようにサンプル抽出に注意を払わなければならないということです。すなわち、より多くの人が納得できるようなサンプル選定方法が必要です。

これは簡単なことではありません。というのも自分の経験が偏ったものであるということを意識することは自分の欠陥を認めることでもあるからです。そのような偏向を客観的に捉えることで、自分の経験の限界を知り、それを聞き取りや調査でサンプルを補おうとすることでのみ、一般化された言説は納得感をもって受け入れられます。

*以上、自戒を込めて書いております。

他にも以下のような記事もありますので、併せてご覧下さい。

関連する記事