「日本語は非論理的で論旨があいまいな言語で、ドイツ語や英語は論理的で論旨が明快な言語」という発言を聞くことがあります。この場合、あいまいな表現が多いかどうかというよりも、その言語によるやりとり全体を指してその言葉があいまい/あいまいでないということが言われています。
ともすれば、日本語を使っている以上、正確な表現はできないというような、言語への責任転嫁を含む場合もあります。しかし、正確な表現ができないのは果たして日本語という言語のためでしょうか。
日本語もドイツ語/英語も一義的に論旨を伝えることができる
どのような言語であっても一つの言葉には複数の意味があります。そのため、他の言葉やジェスチャーで補うことで初めて、言葉を一義的に使い、話者が意図する意味を他者に伝えていくことができます。
例えば日本語母語者であれば、「結構です」という表現もその場のジェスチャーや文脈、顔の表情で、それが拒否を意味しているのかそれとも褒めているのかが一義的に決まってきます。意図があいまいなままの表現もありますが、それはそもそも話者が意図してあいまいにしているためであって、その曖昧性は言葉の問題ではなく話者の問題です。
そのため、日本語があいまいであったりドイツ語が論理的で正確な情報を伝えることができるということではなく、使っている人がどのようにその言葉を使っているか、もしくはその人がどのような論理的思考方法をしているかによって、論理的に話せるのか否かが決まってきます。
日本語は非論理的/論旨があいまいという言説が生まれてくる理由
ではそもそもなぜ「日本語は非論理的/論旨があいまいな言語で、ドイツ語/英語は論理的/論旨が明快な言語」といった言説が生まれてくるのでしょうか。
*以下、論旨が明確か否かという意味も含めて論理的という言葉を使います
非論理的に話す/論旨を不明確にして話すことは簡単ではない
ここでキーになるのが、「論理的に話すこと」と同様に、「非論理的に話すこと」は非母語者にとって簡単ではないという事実が往々にして見落とされているということです。
これはネイティブスピーカーの特権ともいえる能力です。私も一時期、ドイツ語であいまいなことを話せるようになることを目標としていました。外国語でテキトーに話すことは難しいです。外国語で、意図的に目的も結論もなく、論旨をあいまいにしたまま(場合によっては別のことを考えながら、うわのそらの状態)でモヤっと話せますか?*
*当たり前ですが、相手にこちらのテキトーさを感じさせずにです。
このことを図で表すと下の図①のようになります。
- 言語表現に必要とされる能力
論理的な会話には論理的な思考能力が必要であることは当然ですが、非論理的な会話には高度な言語能力が要求されます。母語並みの能力といってもいいのかもしれません。
日本語を使う場合
日本人が日本語を使うときには、母語者ゆえに適当に話せる一方で、論旨を不明確に話すことができる人が少ないです。ちなみにどの言語であれ、論旨を明瞭にして話すというのもそもそも簡単なことではありません。(下図の赤字箇所)それゆえに下の図②でいうと、立ち位置がどうしても左のほうに寄ってしまいます。
- 日本人が日本語を話す場合
英語やドイツ語を使う場合
他方で日本人が英語やドイツ語を使用するときには、母語者レベルに達することも難しいので、左には寄れず、かといって右によるのも簡単ではありません(図③の赤字箇所参照)。
結局右にも左にもどちらつかずの真ん中あたりの位置に落ち着きます。
- 日本人がドイツ語・英語を話す場合
比較してみると
その結果、日本語を使う場合と英語/ドイツ語を使う場合を比較すると前者の場合が相対的に左に位置し、後者が右に位置することになります。
- 日本人が日本語を話す場合とドイツ語・英語を話す場合の比較
この相対的な位置関係が重要となります。
つまり、英語やドイツ語を使っているときには、相対的な限りで論理的に話せていることになります。しかしそれは言語の性格に由来しているのではなく、ただテキトーに話せないからそうなっています。それ故に、外国語を話すときに論理的に話せているような印象を受けるのは、あくまで日本語と比べる場合に限られます。
「日本語が曖昧」というのは、外国語の能力も、論理的思考力も足りていないから
言語能力と論理的思考力が欠如しているために間違った、「日本語はあいまい」という印象を日本人に与えていることについて、自戒も込めて以上で論じてきました。
自分の言語表現を客観的に捉えようとすることで、「日本語は曖昧」という決まり文句に安住することなく、何故曖昧となってしまうのかという問いを自分で追求することできるのではないでしょうか。