何でもかんでも英語をカタカナにした用語を使うことを言葉の乱れとして嘆く人がいます。私も日本語で話すときは出来る限り、欧米語由来のカタカナ語を使わないようにしています。
ただ、日本語自体も多くの漢語を含んでおり、外来語として認識していないだけで、漢語も外国語です。*加えて、漢字やそれから派生した、ひらがな・カタカナも外来由来のものと言えます。
*余談ですが、近代になってから、世界的にも「安かろう、悪かろう」の代名詞にもなったメイド・イン・チャイナです。昔の銅鏡=メイド・イン・チャイナというように高品質な文明品というイメージの時代はまた来るのでしょうか。
カタカナを使わべきではないと主張している人は、その論理を推し進めていくと、できる限り和語を意識的に使わないと行けないのでしょうか。それは現実的ではありません。では、どのような態度でカタカナ語を扱っていけばよいのでしょうか。
まずは言葉の乱れを感じる理由を探ってみます。
「乱れ」を感じる原因:時代の変遷からくる言葉の変化
言葉の乱れという嘆きは、自分の知っている言葉とは違う言葉が使われていることから来る、単なる拒否感からでしょう。
時代が異なれば言葉も異なるのは当たり前です。
嘆いている人自身の言葉も100年前の人から見ると「乱れている」と見えるでしょう。自分と違うことを単なる「差異」ではなく、「劣化」と見なすことで、自分の言葉は「良い」と思いたいだけです。
言葉をそれ自体として良悪の判断をすることができないとするならば、価値判断を完全に放棄して、すべてを受け入れる相対主義の立場をとるべきなのでしょうか?
言葉が良いか悪いかの判断軸:言葉の本質
言葉それ自体は単なる指示記号にすぎないので、良いか悪いかはその言葉が適切に情報を伝える事ができているかどうかで判断されるべきでしょう。
カタカナを使うことを言葉の乱れとして一括してしまって排除してしまう場合、問題の焦点がぼやけてします。乱用という言葉を使わずに、何がダメなのかを議論し合わないと議論が水掛け論になってしまいます。
カタカナ語を使っている場合に問題とすべきことは、話し手がカタカナ語を曖昧な理解のまま使ってしまっており、受け手もそれに応じて意味が理解できない、もしくは理解したつもりであっても誤解してしまっていることです。カタカナ語の歴史は浅いので、話者と聞き手の側に、言葉の意味内容に関する共通の理解がいまだ欠けていることが原因です。
重要な会話や発言で、相手にこちらの意図を伝えきれていない場合は問題となります。
例1:イスラミック・ステートかイスラム国か
そのような例としてNHKの言葉の選択を挙げます。NHKは2015年ごろ、ニュースでそれまで使っていた「イスラム国」という表現が、国際的に承認された「国」というイメージを与えるため「イスラミック・ステート」という言葉を使うようになりました。
両者とも同じ意味です。「ステート」という言葉を使おうが「国」という言葉を使おうが、意味内容は変わりません。
しかし、NHKはステートというカタカナ語を使うことで、視聴者が「ステート」が何か良く理解しないことを期待しています。日本語でも対応する言葉はあるのに、あえてカタカナ語を使うことで、伝える内容が曖昧になってしまっています。
伝える内容は明確にしないと情報発信の意味がありません。
もし「国」という表現を使うことで、承認された国という印象を避けたいのであれば、「括弧付きのイスラム国」とか、「自称イスラム国」とか説明語をつけることで、意図をきちんと説明するべきでしょう。
例2:スーパー日本人って何?
大阪大学のCOI(センター・オブ・イノベーション)が研究テーマに「スーパー日本人」の育成を掲げています。「人間力(脳力、脳個性、体力、意欲等)の高い、 スーパー日本人」*との章句からもわかる通り、スーパー日本人とは超人のことです。つまり人を超えた存在ということでしょう。
超人でもいいのに、なぜスーパー日本人とカタカナ語を使わなければいけないのでしょうか。
スーパーという言葉を使うことで、人を「超」えた存在という意味をぼかしてしまっています。超人養成の方法を実際には研究しているのに、超人研究と言うと倫理的にもっとヤバく聞こえるので、スーパー日本人の研究とぼかすことで批判を避けようとしています。(実際はそれでも批判が出ていますが)
同様にスーパーという枕詞を使っている例として、スーパーグローバル大学もあります。こちらのスーパーは言葉通りに理解するとグローバルの一つ上、つまり宇宙レベルということでしょうか。実際にはグローバルで先頭を走るような大学という意味で使っており、宇宙という意味で使っていないと思いますが、何を考えてこんなネーミングをしているのかさっぱりわかりません。言葉の文字通りの理解と意図するところが合っていません。
不必要なカタカナ語を使うことは情報発信にとって害
明確に何を指しているのかを明白にする努力を怠ったまま発言することは、使っている側にとっても、聞いている側にとっても非建設的でしょう。コミュニケーションができていないわけですから。
その上、カタカナ語を使う目的が、意味内容をわざと曖昧にし、それによって批判を免れたり、かっこいいと思わせるたりするということであれば、コミュニケーションの不在を肯定してしまっています。
いずれにせよ、両者の理解を阻害するという点で、多くのカタカナ語は現段階ではコミュニケーションにとって害以外の何物でもないでしょう。