英語以外の外国語を学ぶ意義とは何なんでしょうか?
この問いに関して深く考えることもなく、「英語が出来る人=グローバル人材」という短絡的な発想が横行し、大学での語学教育において第二外国語が軽視されています。しかし、外国語という情報ツールの根本的意義を理解せずに言語教育を進めることは危険でしょう。
そのためにまず、外国語、とくに英語以外の外国語の学習がどのような効用をもたらしうるのか、なぜ第二外国語を勉強しなければならないのかについて立ち止まって考えてみる必要があります。
それは同時に、英語一辺倒の教育が持つ危険性を指摘する作業でもあります。
言語にはそもそも、読む、書く、話す、聞くという4つの機能があります。それに応じて、外国語を習得する意義とは大きく分けて3つあると考えます。
- 情報の摂取(=読む)
- コミュニケーションによる人間関係の構築(=話す、聞く)
- 多言語使用による日本語思考の相対化(=上記効用の副産物)
日本において、この3つの意義のどの点を重視するかは時代的変遷をたどってきました。まずはこの変遷をたどることで、現代における英語偏重思考の原因と問題点を探っていきます。そして、この作業を通して第二外国語の意義を明らかにします。
情報の摂取が重視された時代
外国語に期待された3つの意義のうち、従来は「1. 情報の摂取」という点が強調された形で外国語学習が行われてきました。
すなわち、近代以前はオランダ語や漢語の書籍、近代以降は欧米からの文献を読んで、場合によっては日本語に翻訳することが最重要でした。それは、文献の輪読とその内容を日本語で議論するというものです。日本の大学では、あるテーマに沿って調査した内容を発表するというよりも文献の読解が大部分のゼミで中心をなしているのはその表れです。
その際にはコミュニケーションにおいて外国語を使うことは全く重視されていません。その証拠に、大学で第二学国語を履修してその言語を物にできる人はほとんどいないといっていいでしょう。英語の例をとれば、大学も含めると10年ほど勉強してきているのに、使いこなせない人が多いのはやはり、文章を読んで理解することに教育の重点が置かれていることの証左でもあるでしょう。
コミュニケーション重視の時代
しかし現代に近づくにつれて、今度はコミュニケーションの面が重視されてきます。
世界中を見てコミュニケーションできる人の数という観点からは、英語が圧倒的に便利です。量という観点から眺めると英語が重視されるのは当然です。非英語圏の人でも英語が話せる人がいることから、英語が使えれば世界中の人とコミュニケーションできるという誤った考えが蔓延していることによってもこの利点は過大評価され、今度はこの過大評価が英語一辺倒の教育観を助長しています。
その結果、英語だけ勉強してればグローバル人材という考えに基いた偏重教育が行われようとしています。すなわち、英語の過大評価によって第二外国語が相対的に重要性を奪われ、高等教育機関における第二外国語教育の規模の縮小という形となって表れています。
英語偏重の問題点
しかしながら、英語偏重には重大な問題があります。それは外国語を習得する意義として上に挙げた3つの点において生じてきます。
- 情報の摂取
- コミュニケーションによる人間関係の構築
- 多言語使用による日本語思考の相対化
①得られる情報の量と質が限定されていること
英語偏重の影で縮小されている第二外国語教育ですが、非英語圏のある国を理解するためにはその言語の習得が必要不可欠です。というのもある非英語圏の国に関して英語で得られる情報量や、コミュニケーションの質と範囲は圧倒的に限定的だからです。
非英語圏に関して、英語による情報にばかり頼っていると、英語話者の興味関心がある領域の情報しか得られません。情報は、伝達される前に伝達者によって取捨選択が行われますが、第二外国語を使った直接の情報接種と比べて英語で得られる情報とは情報伝達の過程で英語圏のメディアが余分に入ります。その結果、英語圏の人にとって興味がある内容が重点的に選択されて紹介されることになります。
それは余分な中間媒体によって伝達される情報の幅がより狭くなるという意味での量の低下と言えます。
実際のコミュニケーションにおいても英語偏重思考では問題が生じます。
非英語圏の人と英語でコミュニケーションをとる場合、伝達者がどれほど英語が流暢であるかによって、得られる情報の質と量が変わってきます。つまり、得られる情報の質と量は、英語を使う現地人の英語表現能力によって制限を受けます。たとえ当該人物が問題なく英語ができたとしても、英語ではどうしても伝わらないニュアンスという情報は伝達されません。
②コミュニケーション可能な人が限定されていること
非英語圏の国でどれほどの人が英語で話せることができるのでしょうか。北欧やオランダのようにかなり多くの人が流暢な英語を話せる国*もあれば、フランスのように多くの人が英語を話せない・話したくない国もあります。
*勝手なイメージです
一般的には高齢になるほど、そして教育程度が低いほど英語話者は少なくなると考えます。確かに会社では英語でコミュニケーションできる人も多いでしょう。しかしドイツの場合、一歩外に出て、市場に行ってみたり、家の修理で職人さんに来てもらったりすると、彼らは英語を話せないことも多いです。
つまり多かれ少なかれ、非英語圏の国で英語でコミュニケーションを取れる人は限られているということです。*
*これは上の「①得られる情報の量と質が限定されていること」と関連しており、情報源に偏りが出るために情報自体にも偏向がより生じやすくなります。
これが上でも述べた、「英語を話せれば世界中と話せる」という言説が幻想でしかない理由です。
③コミュニケーションの質の低下
例え相手が英語を話せるとしても、現地語でのコミュニケーションは相手への精神的距離を縮めます。それは外国人が頑張って日本語を勉強して日本語で話そうとしてくれると日本人にとって親近感がわくのと同じです。
加えて、現地語でのコミュニケーションでは、双方にとって外国語である英語で話すよりも誤解も少なくなるそうです。以下の論文ではイタリアの例を基に現地語コミュニケーションの効用が述べられています。
①~③への補足:「英語が万能」幻想がはらむ危険性
「①得られる情報の量と質が限定されていること」、「②コミュニケーション可能な人が限定されていること」、「③コミュニケーションの質の低下」の補足として次の危険性が挙げられます。
それは、英語が出来れば非英語圏に関する情報はある程度得られると感じることで生まれる安心感です。
それは、質と量で制限されていようとも英語だと何らかの情報も手に入り、かつコミュニケーションも少なくとも最低限度のレベルでは可能なため、非英語圏のことも知っていると勘違いし、現地の言語をわざわざ勉強してよりより理解しようとする動機がなくなることです。
学部時代のある教授は「自分は英語と日本語のバイリンガルで育ったから、言葉に関しては何とかなってきた。でもそのおかげで、別の言語を学ぼうともしなかったのは大きな損失だった」*と言っていました。
*一字一句正確な引用というわけではありません
④社会における思考様式の一元化
記事の冒頭で、外国語を学ぶ意義の3つ目として「3. 多言語使用による日本語思考の相対化」を挙げました。
外国語を学習することで、海外の情報を得たり外国語でコミュニケーションが出来たりします。その過程で、自分が知らないこと、当たり前だと思ってたけど実は当たり前じゃないことも浮き上がってきます。これは、自分の今までの思考方法をより客観的に眺める機会になります。
確かにそれは英語でも可能のように見えるでしょう。
しかし、このような思考の相対化という作業によって得られた考えは、すぐにまた常識という名の、当然の知識として陳腐化してしまうため、思考の相対化という作業は常に繰り返し行っていく必要があります。
社会全体がそのような作業を行っていくためには、異分子を内に含んでいる必要があります。しかし英語偏重教育によって英語しか勉強しない人ばかりの社会の場合、英語の知識や使用によって思考の相対化は出来ますが、それは継続性を持たないプロセスに留まります。
つまり、相対化した思考はすぐに当たり前の知識として固定化されてしまい、引き続き相対化はなされません。というのも、それをさらに相対化するような見識をもった人間がいない/少ないからです。
英語偏重の社会とは、一つの「常識」から抜け出すことが出来ない構造をもった社会といえます。
第二外国語を学ぶ意義とは
英語への偏重がもつ4つの問題点を裏返したものがそのまま第二外国語を学ぶ意義となります。すなわち、前節の繰り返しになるので要点のみ挙げておくと以下の4つになります。
- 得られる情報がより直接的であることから質と量の制限を受けにくいこと
- より多くの現地人とコミュニケーションを図れること
- コミュニケーションによる意思疎通と関係構築がスムーズにいくこと
- 社会における思考様式の多様性を維持できるということ
しかし第二外国語の数少ない学習機会である大学では、第二外国語の授業が縮小されております。しかし、それは間違った方向です。
もし大学教育の意義というものが、物事を批判的に捉えることだとすると、とりわけ「4.社会における思考様式の多様性を維持できるということ」という第二外国語学習の意義を強調しすぎることはないでしょう。
加えて、大学教育を職業訓練の一部として捉える立場をとったとしても、1.~3.の点は非英語圏で仕事を円滑に回していく上で必要不可欠となります。
そのため、社会に蔓延する英語一極化の風潮に大学教育を迎合させ、その結果第二外国語を縮小させてしまうことは、社会の批判的思考能力の向上と言う点でも、経済活動という実際面においてもマイナスの影響しかありません。
そのために、第二外国語教育の機会を削減してしまう前に、英語も含めた外国語を学ぶ意義とはそもそも何なのかを冷静に考えてみる必要があるのではないでしょうか。