自然科学や社会科学では、英語論文を権威のある国際ジャーナルに投稿することが高く評価されます。そうした評価の観点を文系の研究業績にそのまま当てはめて、
- 「日本語ばかりで研究発表している人文科学系は遅れている」
- 「人文科学も英語で研究発表しなければ意味がない」
と批判をする人もいます。
しかしそれは、研究分野の本質的特徴の違いを無視した主張です。
ここでは、人文科学の業績が現在どのように評価されるかという現状を紹介するのではなく、人文科学の在り方という観点から、「日本語*1で人文科学の論文を書くことの意義とは何か?」について論じたいと思います。
研究発表で想定する聴衆のタイプ
「どの言語で研究業績を発表すればよいのか」という問いに答えるためには、そもそもどのような聴衆のタイプが存在し、どの言語を使えばどの聴衆のタイプにリーチできるのかを考える必要があります。
一般に、研究成果を発表する聴衆には以下の三つが考えられます。
- 日本語圏の研究者
- 海外の研究者
- 日本語圏の素人
こうした聴衆のうち、研究成果を英語で発表することによってリーチできるのは
- 日本語圏の研究者*2
- 海外の研究者
です。
つまり英語で業績を発表するということは、同じ領域の専門家に向けて発表するということを意味します。しかし同時に、日本の一般国民は切り捨てることになります。
逆に、日本語で業績を発表するということは、海外の研究者を切り捨て、
- 日本語圏の研究者
- 日本語圏の素人
をターゲットとするということです。
これを踏まえて、各学問分野の存在意義を考えていくと、どの言語で研究成果の発表をするのが良いのかについて見えてきます。
自然・社会科学:英語発表が評価される理由
自然科学や社会科学は「同業者志向」です。
というのも、自然科学や社会科学の成果は、日本語圏の一般国民が直接それを読んで理解し、日常の生活に生かすというものではありません。つまりこうした成果は、別の研究者や、民間/公的セクターの専門家による加工を経て*3初めて、一般国民に還元され得ます。
そのため、自然科学や社会科学では、研究成果の聴衆は専門家集団がメインとなり、成果発表の言語は、「研究成果をどれだけの専門家に届けられるのか」という観点から選択されることになります。そのため、一部の専門家しか理解できない日本語が、英語と比べて低い価値しか認められないことは当然となります。
これが、日本語よりも英語での発表が評価される理由です。
人文科学:日本語発表に意義が存在する理由
それに対して人文科学では、その成果が直接的に一般国民に還元されることも期待されています。
もちろん専門的なテーマとなると、専門家にしか興味のない内容になることもあります。しかし人文科学の成果というのは一般的に、
- 政治活動(投票行動など)
- 文化*4
- 社会生活
- 私生活
といった、人生に欠かせない局面で重要な判断材料を一般国民に直接提供します。人文科学のこうした性格規定から、研究成果を一般国民が直接入手し、理解しやすい方法で発表する必要が出てきます。
自然・社会科学が「同業者志向」であることに対して、人文科学は「素人志向」といえるでしょう。
これが、人文科学の研究成果を日本語で発表することの意義です。
人文科学において専門雑誌への論文投稿だけでなく、一般書籍による研究成果の発表が業績として認識されていることは、人文科学の意義が国民の「啓蒙」にもあることの結果です。
(もちろんこのことは、人文学の研究成果を英語で発表しなくていいということの言い訳にはなりません。というのも、人文科学においても同業者への研究成果の還元に意味がないわけではなく、あくまで、聴衆が「同業者」に限定されないというだけだからです)
発表言語は学問の在り方に応じて変化する
- 英語で発表したほうがいいのか
- 日本語(=英語以外の現地語)で発表した方がいいのか
という問題は、成果を誰に向かって発表すべきなのかという問いでもあります。そしてそれは、「何のために学問をしているのか」という根源的な問い*5でもあります。
この問いに対する答えは、学問分野によって異なってきます。
そのため、研究分野の個々の特性を無視して、英語での発表が「上」で日本語は「下」とアプリオリに評価することは、雑な議論以外の何者でもありません。