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元コンサルタントな歴史家―ドイツから見た日本

大学で近代日独軍事史を研究する伊藤智央のエッセイ。ドイツと日本に関する批判的な評論を中心に海外生活(留学や移住)の実態をお伝えしています。その際には元戦略コンサルタントとしての経験も踏まえてわかり易くお伝えできればと思います。

入社式に見る、日本型ダイバーシティが行き詰まる理由

日本 日本-政治・経済・文化

毎年4月には入社式で新入社員が抱負を宣言する姿が見られます。

会社に入るのに何故、宣誓というような儀礼を集団で行わなくてはならないのでしょうか?この儀式の中に、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」的な、思考を停止させた集団主義を感じてしまいます。

*本記事では、集団主義自体が悪いと言っているのではなく、集団主義がもたらす負の面が容易に看過されていることについて語っています

**本記事では、問題点を明らかにするためにサラリーマン社会をある程度極端に描いています。すべての会社員や会社に当てはまるわけではありませんが、一般的な傾向としてはある程度当てはまるのではないでしょうか

新入社員

「金太郎あめ」的画一社会

同期、先輩、後輩・・・年次を中心とする人間関係

入社式という儀式によって、何年度入社という観点から社員が分けられ、そこから~期という互助的な集団が生まれます。

公式の命令系統とは別に生まれる、こうした集団を中心にして物事を捉える見方は、一斉に入社した同期というグループ、そして先輩、後輩関係という、縦横関係の中で個々人のアイデンティティが形成されていくことにつながっていきます。

個々の人間をありのままに捉えるより先に、こうした関係性の中で相手を捉え/相手から捉えられることから、初見では年次以外の要素で人を捉えることが抜け落ちてしまうことが多々あります。

具体的に言うと、○年上の先輩・同期・○年下の後輩のXXさんという枕詞がXXさんにはついて回る形で認識されます。人間関係がこうした形で構築されることで、対象となる相手はありのままの姿では捉えられなくなります。

年次という考えの前提とその問題性

この考えは、入社年によって区切られた集団は同質性を持っているということを前提としています。その集団の中では、すべての人が金太郎あめのように、同質的であるという考えです。(金太郎あめとは下の写真のように、切っても切っても同じ図柄が出てくるあめのことです)さらに詳しく言うと、勤続年齢以外の要素は重要ではないという考えが前提にあるとも言えます。

だからこそ、このような「同期、先輩、後輩」という物の見方が幅を利かせているのでしょう。

切っても同じ絵柄の金太郎飴

しかし、もしここに当該集団とは異質な存在がいたとしたら、彼/彼女は正当に評価もされず、しかも集団の中で同質化圧力を受けます。

年次だけで人をくくってしまう、単次元的な見方は、年次とは違う軸で特出した才能を持ったり、他の人とは全く違う経歴をもった人材を正当に評価することが難しく、そして結果として排除してしまいます。

確かに勤続年数が能力の決定的要素であった時代であれば、このような年次思考は有効かもしれません。

しかし、ダイバーシティが国の成長戦略として考えられている時代には、年次を中心とした人間関係では、個々人がもつ、年次以外の要素(性や国籍、家族の事情)が見過ごされてしまい、結果として人の持つ多様性が見過ごされてしまいます。つまり、多様な人材を活用していくことは困難になってしまいます。

私法人への全人格的な忠誠を強いる儀礼

宣誓式は隊旗授与と類似

この入社式には年次思考とは別に、公私に対する日本社会の考えも表れています。つまり、入社式は、生活の一部をそこで過ごすことになる(私)法人に対する忠誠を誓う儀式にも近い存在として表れてきます。

というのも、入社における宣誓式は、軍隊での宣誓もしくは隊旗授与の儀式にも似て、全人格的をもって仕事に打ち込むことを要求しているからです。それは社会「人」という次なる段階の「人」になるための儀礼でもあるからです。

*会社に入ることで社会人になるということからも表れているように、「社会」が「会社」と同一視されていることも問題ですが、それについては別の機会に論じようと思います。

会社は、私的なもの、そして極めて私的なものである命も犠牲にすることを要求しうる軍隊ですか?

戦うサラリーマン。24時間働けますか?

会社は生活の一部ですが、すべてではないはずです。正確に言うと、会社が好きな人はすべてを捧げてもよいでしょうが、別の価値観を持つ人にそれを強制することはできないでしょう。

公私の未分化・アンバランスの強制

しかし、公私=「仕事」と「家庭」が未分離、もしくは仕事優先の考えが家庭を圧倒している会社社会では、「私」は後回しにされるか、隠されるべき存在です。

そうなると、「私」の面で時間をとりたい/とらなければならない人は、「公」を絶対視するサラリーマン社会からの要求に必然的に応えられなくなります。

*育休や産休がキャリアの障害となってしまっている場合がそれに当てはまります。

そうした人は、女性であったり、転勤を嫌うサラリーマンであったり、自由な勤務形態を好むフリーターであったりします。彼ら・彼女らを正規雇用して、活用していくには、彼ら・彼女らの長所を生かせるような多元的な評価体系が必要とされるでしょう。

「転勤できないから出世は無理」というような、能力とは別次元のフィルターだけで人を振るい落としてしまっていては、多様な人材も集まりようがありません。評価側の評価軸が一元的なため、個々人が持つ多様な面はただのお荷物となってしまうからです。

サラリーマンと兵法

サラリーマン用実用書に、よく会社や会社員を軍隊や軍人、ビジネスを戦争と比較するものが多いのも、会社世界が自らを、上記に述べたように、全人格を仕事になげうつような軍隊として見ていることの表れでしょう。孫子、ナポレオン、クラウゼヴィッツも、生きていたら日本のサラリーマンに読まれていることにはびっくりでしょう。

一括スタートの就活→入社という単一ルートが生む金太郎あめ人材

人との差異は自動的に「強み」となるわけではありませんが、強みは差異からしか生まれません。社会として、人との差異を持った人材を有効活用していきたいのであれば、差異をもった人材を生む社会の仕組みが必要です。

しかし現状では、18歳で高校卒業・大学入学→在学中に就活→22歳で卒業と同時に入社という同じバックグランドをもった人材が大量に生まれています。その中にも、人と違った考えを持った人もいるでしょうが、確率論的に、インプットが同じであれば考えも類似した人材も多くなります。

就活に数年出遅れると就職が難しくなるという制度もあり、学生のほうも、人と同じことをしていれば食いっぱぐれはないという事勿れ主義に陥っている人も多くいます。彼ら・彼女らが今度は、人材を評価する側になりますが、会社に、「人の道を外れた」経歴を持った人がいないのにどうやって異色の人材を採用し、マネジメントできるようになるのでしょうか。

*一般論として述べているので、大学→新卒入社という人は必ず、異色の人材をマネジメント出来ないと言っているわけではありません。

こうして、差異を許容しない/活用できない風潮が再生産されてしまっています。

上記に述べたような、日本の社会が抱えている、同質性への志向が、この入社式という儀礼に縮図として表れています。

*サラリーマンについて書いていますが、本記事は他の職業にも当てはまります。例えば弁護士でも、そのような視野狭窄な考えをもった人はいます

**冒頭にも注記していますが、サラリーマン一般のことを言っているのであって、個々の会社や会社員の方全員に当てはまると主張しているのではありません。あくまで全般的傾向について述べています

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