電車におけるマナーを訴えかけるCMが日本では放送されています。その中には、他の乗客の迷惑となる行為が批判されていますが、その中には、車内で化粧をしている女性への批判があります。
しかし、なぜ車内で化粧してはいけないのでしょうか。それは化粧だけではありません。なぜ、車内では大声で話してはいけないのか。
その答えの先には、日本における、公共空間に対する捉え方が関係しているように思われます。
電車での「マナー」違反の例
女性が化粧を公の場で行うと、「節操がない」「みっともない」というモラルを掲げて批判されます。
他にも、リュックを背中に担いだまま電車に乗ったりすること(写真、右)を批判して、駅や電車内のマナー向上が訴えられています。
(参照:東急電鉄HP © Copyright TOKYU CORPORATION All Rights Reserved.)
こうした批判からは、車内の「マナー違反」という言葉が、人に迷惑のかかる行為、人が見て不愉快となる行為のことを指して使われていると思われます。
公共空間と現代日本
「迷惑」と感じるのは公共空間が私的要素に侵されるから
女性の化粧への批判は1つの例ですが、こうしたマナー違反キャンペーンには、日本における、公共空間に対する考え方が現れてきているように思われます。
つまり、公共空間とは中立的であり、「色」がついてはいけないという考えです。それは、人とは違った行為、つまり音や匂い、空間利用の仕方によって、公共空間が少数者によって色付けされると、それに対する反発が出ることに表れています。
例えば、
- 電車の中で電話してはいけない*1
- 食べ物を食べると、車内に広がる匂いから白い目で見られる
- 赤ちゃんが泣くと、乗客の中には文句を言う人も出て、赤ちゃんを連れている人がそれを感じて困ってしまう
という事例を見ると、公共の空間が、まるで「迷惑」者の私的空間のようになってしまうことへの反発が見られます。
食事や会話、赤ちゃんの泣き声は、他の乗客には関係ないことであるため、私的空間に属すると言えます。そうした私的な行為を公共の場にもってくると、「勝手に家でやれよ」、つまり、「私的な事柄は私的な空間から逸脱するな」という反発が生まれてきます。
要素を引き算することで得られる中立性
このような公共空間の特徴は、「マイナス思想」です。
つまり、中立性の維持は、個人個人の趣味や嗜好といった「色」のついたものを引き算していくことで得られる、という考え方でしょう。個性を排除することで成り立つ、ゼロ空間、それが中立性をもった公共空間なのです。
これとは対照的な例を提供しているのがドイツ・ベルリン交通会社によるCMに見られるような、公共空間の把握の仕方です。
ドイツ・ベルリンのCMに見られる公共性の認識様式
車内ではなんでも許容される?
ドイツ・ベルリンの交通会社による自己イメージPR広告を見てみましょう。多様性を寛容するという標語のもとで、さまざまな電車利用者が描かれています。
(参照:BVG © Berliner Verkehrsbetriebe 2016)
ここに出てくる人達は、日本の「マナー」感覚で言うと、一発アウトのレベルです。
- 音楽を演奏して、お金を稼ぐ人
- おなかを出したままの人
- 引っ越しのためにソファを運ぶ人
- 玉ねぎを切る女性
うるさかったり、「見苦し」かったり、場所を占領したり、きつい匂いが車内を漂ったりと、少なくとも白眼視は間違いないでしょう。
しかし、車掌はこのような人たちを見ても、「それは個人の趣味に属することで、他人である自分には関係ない」と言わんばかりに、「どうでもいい」という言葉を繰り返しています。
つまりこのベルリンのCMの例だと、無賃乗車以外は全て許容するという態度です。
個々人の要素間のバランスから生まれる中立性
この許容/無関心の態度には、公共空間に対する、日本とは別の認識の型が含まれているのではないでしょうか。*
*ここではドイツやベルリンについて述べることが中心ではなく、このCMに見られる認識の型を通して日本の事例を際立たせることをもくろんでいます。というのも、このCM自体は、(ベルリンの人は知りませんが)一般のドイツ人には理解できない考え方でもあるからです
もちろん公共空間である以上、すべての人にとってその空間は利用できなくてはなりません。つまり、誰もが利用できるという意味で、「中立」でなければなりません。
しかしそれは、私的な要素である、個人の趣味や考え方、人生観を限りなく許容し、「我慢する」ことで、中立性を確保しようとしているということです。
イメージとしては、多様な個性が公共の場で主張され、それが「相殺」するようにバランスを保っているところに中立性が生まれるということです。
もしこのような多様性に苦情を述べる人がいるならば、「公共の場における他人の振る舞いに耐えられないのであれば、自分の家に帰るか、車で移動しろ」と反論が返ってくるでしょう。*2
補足:足の臭いに耐えられずケンカにまで発展
ちなみに、他者の嗜好を「我慢する」必要があると言いましたが、それはドイツでもなかなか簡単ではありません。
例えば、ドイツの新幹線(ICE)で実際に起きたことですが、30歳代と50歳代の乗客がもめたことがあります。
2人とも、向かい合った4人掛けの席に対角線上に席をとっていました。しかし、50歳代の乗客が靴を脱いで、前の席に足を置いたところ、これが30歳代の乗客には臭すぎたため、この足を払い落し、文句を言いました。
これを機に2人は口喧嘩となり、ついに警察沙汰にまで発展しました。
参照記事:ICE nach Berlin: Streit um stinkende Füße - SPIEGEL ONLINE
まとめ:車内マナーとは、公共空間の把握の仕方の違いから生じる
公共空間に関するこれら2つの異なった認識のうち、どちらのほうが良いかという判断は私は行いません。
というのも、公共空間の利用者としてどちらも良い点、悪い点があるからです。
日本の場合、こうしたマナーの押しつけはうっとおしく感じるかもしれませんが、それによって、誰にとっても使いやすい、落ち着いた空間が提供されています。
ベルリンCMの場合、何でもありな自由さを感じられる一方で、他人の匂いや音、振る舞いで不快になることも少なくありません。
注意点:ベルリンCMは日本の特徴を描き出すための道具
ベルリンCMの例は、日本の事例を分析するために引用しているだけで、ベルリン全体に一般化できるかどうかは確かではありません。ここではあくまで、ベルリンのCM内に見られる論理として限定して述べています。
少なくとも、ドイツ全体へ一般化は難しいのではないかと考えています。
というのも、ドイツ全土を網羅するドイツ鉄道の広告には、ヘッドホンからの音漏れを注意するものもあり、上に挙げたベルリンの例よりも、日本のマナー広告の例に近いと言えます。加えて、ドイツ人の中にも、車内がうるさすぎると文句を言ったり、他人の臭いに耐えられない人もいます。特に年配の人からそのような文句を聞くこともあります。
ここで私がドイツのCMを引いてきた目的は、ベルリンの広告と重ね合わせることで、日本の広告の背景にある、公共空間の捉え方を明らかにすることです。
無色透明な空間としての日本の公共空間
寛容さや自由を標榜するベルリンのCMをもとに、公共空間の認識の仕方には2つの方法があることを見てきました。
つまり、多様性を許容することで公共空間を維持しようとする考え方と、日本の「マナー」広告に見られるように、公共空間を出来る限り色の付つかない空間として維持しようという考え方です。
最後に、「なぜ日本では、電車の中で化粧してはいけないのか?」というもともとの問題意識に戻ると、その答えは、「日本における電車内という『公共』空間は、公共性/中立性の認識の仕方から、化粧行為のような『私』的な要素とは矛盾してしまうから」ということになります。