ルーマニアには、かつて多くのドイツ系住民が住んでいました。彼らは、
と呼ばれており、共産主義時代にその多くがドイツやオーストリアへ戻って行きました。
そのため現在、ルーマニアにはドイツ系住民はほとんど残っていませんが、彼らが残した街や村は残っています。
そのサクセン人が建てた城郭都市の一つが、シギショアラ(ドイツ語名シェースブルクSchäßburg)で、世界遺産にも登録されています。
また、ドラキュラ(ヴラド・ツェペシュ)の生誕地の一つとされることで有名な街です。*4
こじんまりとした街で、「トランシルバニアの真珠」とも称されるほど綺麗な街並みです。ですので、ルーマニアに旅行したら絶対に観光しておきたい街となっています。
ここでは、この町で生まれ、地元の博物館員だった元住民の方に案内してもらった、絶対に見ておきたいスポットを厳選してご紹介したいと思います。
小高い丘に二段に作られたシギショアラ
シギショアラは要塞機能を持っており、そのため小高い丘の上に建てられています。実際に、モンゴル人やオスマン帝国から攻撃を受けたこともあります。
そうした要塞としての起源から、シギショアラは丘の最上部から形成されていきました。そのため街は、
- 最も古い時期にあたるI期
- その後に作られたII期
に分かれます。
現在多くの観光名所が集まっているのはII期の部分です。
街の下から見ても、この二重構造がわかります。
II期:シギショアラ観光の中心
街のシンボル:時計塔
街を訪れる人が最初に目にするのが、鮮やかな屋根模様を残す時計塔です。曜日ごとに機械仕掛けの大時計の左にある人形が入れ変わり、時間だけでなく曜日も教えてくれます。
この時計塔には博物館もあり、博物館を見終わると、時計塔の上にある展望台に到着します。ここから、街が一望できます。
今回は博物館長の特別許可のもと、展望台(下写真①の部分)のさらに上にある、鐘の部屋(写真②)に入らせてもらいました。
一般公開の展望台
①の回廊(一般公開部分)では、360度見渡せます。
ではさっそく普段は立ち入り禁止の屋根裏へと入ってきます。*5
屋根裏の空間
屋根裏は薄暗く、屋根の隙間からこぼれてくる外から光のみが頼りです。
この屋根裏部屋には3メートルほどのハシゴがあり、上に上ることが出来ます。ただ、手すりもハシゴ自体もボロボロでいつ足場が崩れても不思議ではありません。
このハシゴの終わりに1メートル四方の窓があります。ほとんど人が入らないので、この窓は鳩のフンで固まっており、開けるだけでも数分かかってしまいました。
鐘の部屋
そして体をねじりながらこの窓から上によじ登ると、鐘がある狭い空間へとたどり着きます。ここが、冒頭の写真で紹介した②の部屋になります。
この場所は、
- 足場は傾いたブリキ板
- 床は何十年もの間降り積もった鳩のフンだらけ(一部、鳩の死体も)
- 縦横約2メートル、高さ1,5メートルほどの狭さ
- 周りは年代物の金網だけ
なので、いつ足が滑って、周りの金網が持ちこたえられず、そのまま下まで転落してもおかしくありません。そのため、慎重にかつ屈みながら見学することになります。
主鐘
この空間の中央には、時計塔の名前の由来となったメインの鐘が存在します。鐘に描かれた銘文は、聖書からのラテン語での引用です。
ただよく観察すると、鐘を支える木製の梁(はり)の状態がかなり悪く、鐘と梁との組み合わせ部分は外れてしまい、(下写真、左)鐘の重量は全て床に掛かってしまっています。(下写真、右)鐘の重みで床が抜けるのも時間の問題で、修復が緊急に必要です。
副鐘
また、メインの鐘よりも高い音程の音を出すために、金網の外に、小さな鐘が備え付けられています。紐でメインの鐘と連動しています。
こうした鐘は17世紀につくられ、そのメカニズムについては、案内してもらった元博物館員の方が1980年代にスケッチを作成しています。その一部をここで特別に公開します。*6上の写真で見せた主鐘は下のスケッチの2にあたり、副鐘は3にあたります。
3つ目の鐘の存在
このスケッチにあるように実はさらに1の鐘が上にあります。その鐘を確認するためには、更に上に行くためのさび付いた鉄のボロボロのハシゴを登る必要があります。
しかし、そもそもこのハシゴにたどり着くためには、鐘のかかっている梁をよじ登る必要があります。案内してくれた人が1980年代に上って以来誰も登った人はおらず、梁の状態も良くないことから、かなり危険なので、今回は残念ですが、諦めることにしました。
職人の足跡
ちなみに、鐘のある空間の壁には、最後に修復した年である「1894」の数字とともに、鳩のフンのために判別しにくくなってしまった文字も書かれています。恐らく修復を担当した職人の名前でしょう。
ドラキュラの生家(?)
時計塔を通り抜けると、すぐ左手にドラキュラの生まれたと推測される家があります。(写真:黄色の家)
ドラキュラの生家が誇大広告である理由
この家でドラキュラ(ヴラド・ツェペシュ)が生まれたと断定的に紹介されることも多いのですが、それは推測と誤解が混じった見解です。
今建っている建物は17世紀の大火後に建てられており、ヴラド・ツェペシュは15世紀に生れています。そのため、生家があったとすればそれは写真の建物以前に立っていた建物です。この黄色の家がオリジナルの生家ではありえません。
しかも、ヴラド・ツェペシュがこの場所で生まれたかどうかの確証もありません。
生家だと推測する根拠は、
- 彼が生まれた時期に彼の父親がシギショアラのその家に滞在していた
- 「生家」と宣伝している建物にヴラド・ツェペシュを描いているとされるフレスコ画が残っている
の2点ですが、
- 前者は、ヴラド・ツェペシュがシギショアラで生まれた決定的な根拠にはなりません
- 後者のフレスコ画は、ヴラド・ツェペシュの生きていた時代のだいぶ後に描かれたもので、描かれた人物がヴラド・ツェペシュかどうかについても確証がありません
つまり、「ドラキュラがここで生まれていたらいいのに」という希望的な推測の上に成り立っているのが、この「ドラキュラの生家」になります。
こうした希望的推測は、見え透いた誇大広告に簡単に姿を変えます。例えば、現存するはずもない「ドラキュラが生まれた部屋」が、この「生家」には存在することになっています。(下の写真)
「ドラキュラの生家」の中身
実際にお金を払って中に入ってみると、薄暗い二つの部屋に行きつきます。ただ棺桶から人が驚かしてくる部屋と、ドラキュラをモチーフにした絵や胸像が置いてあるだけの部屋です。歴史的な価値はゼロです。
しかも、ヴラド・ツェペシュ(と推測される人物)を描いた歴史的なフレスコは、お金を払って入れる場所にはありません。このフレスコ画は、何の説明もなしにレストランの壁の一角を飾っています。
そのため、観光客は何も知らずに、お金を払って安っぽいドラキュラ・ルームに入り、本物のフレスコ画は素通りになっています。
「ドラキュラ」=観光資源
この「ドラキュラの生家」に見られるように、「ドラキュラ」は重要な観光資源であることから、ドラキュラを前面に出している業者にあふれています。例えば、街のいたるところで、お土産のデザインとしてフル活用されています。
UFO(?)の啓示を受けた歴史を持つ修道院教会
さて、ドラキュラ以外にもシギショアラが誇るものがあります。それはUFOです。というのも、シギショアラと宇宙人との関係を証言するものが、「ドラキュラ」像のすぐ隣に修道院教会の中にあるからです。
この教会には16世紀の絨毯やバロック期の祭壇などが見どころなのですが、最も興味深いのは、UFO(?)の存在を描いているようにも見える17世紀に描かれた絵です。
確かに教会の上に円盤型のUFOが浮いているように見えます。
個人的にはUFOではないと思うのですが、ルーマニア人はUFO好きなこともあり、一部ではUFOとして騒がれています。UFOと信じたい人が見ると、教会の歴史を説明しているこの絵画は、まるでUFOから何かの啓示を受けているかのようにも見えます。
ちなみに、この絵は、鍵のかかっている部屋(左側の廊下)にあり、普通は見ることができません。というのもこの絵見たさに観光客がフラッシュをたいて撮影したり、触ったりしたためです。(私は特別に許可を得て見せてもらいました)
II期とI期をつなぐ屋根付きの階段
街の広場を更に進んでいくと、木製の屋根付き階段が見えてきます。
この階段は屋外にあるにもかかわらず木製の屋根がついており、雨の日も濡れずに街の中心街(II期)と高台(I期)の間を行き来できます。知り合いのドイツ人は子供のころに、毎日この木の階段を登って、丘の上にあるドイツ人学校に通っていたそうです。
階段の右にある、石畳の階段を昇っても、街の周りに広がる自然が一望できます。
階段の中の景色は光が入り込み幻想的でもあります。
17世紀の大火の証言
この階段の入り口の左側には、17世紀の大火の跡が残っています。
先のUFOの教会は大火までは階段の左側に立っていました。大火ののちに今の場所に移動したのですが、大火で焼け残った壁が今でも見られます。
ツタに覆われていますが、壁を支える石梁の形が見えます。お土産屋の小屋はちょうどこの梁の間に挟まるように存在しています。
I期:初期の城塞地帯
階段を登りきると高台に到着します。
この高台こそが、シギショアラが最初に造られた場所です。現在この場所には、
- 学校(上の写真の右奥の建物)
- 丘の上の教会
- ドイツ人墓地
があります。
丘の上の教会
シギショアラが要塞として作られた初期、この教会が立っている場所には別の教会が立っていました。
そのため、丘の上の教会に入ると、祭壇の前にぽっかりと地下への入り口があります。
ということでさっそく入ってみましょう。
この地下の場所こそ、かつての教会の一部です。
しかし、かつての身廊(下図の灰色部分)だった部分は残っていますが、左右の側廊(下図の茶色部分)は、その後、地下墓地として使われるようになりました。
(上図赤丸から写真撮影)現在では、側廊にあった遺体は墓地に移され、コンクリートで埋められております。(左下の写真)ただし一部、当時の棺桶が展示されています。(右下の写真)
そして、さらに奥の内陣部分(下図の茶色の祭壇空間)に進んでみましょう。
(上図赤丸から写真撮影)真っ暗ですが、左側に祭壇が見えます。祭壇の右側にある階段は階段に見えますが、階段は途中で壁によってさえぎられてなくなっています。
この丘の上の教会では現在、年に一度しか宗教関連の行事を行っていません。ドイツ人住民がほとんどいなくなった今では、教会としての機能はほとんど失われています。
ドイツ人墓地
丘の上の教会に併設されているのが、墓地です。この墓地は、時代ごとに分かれており、中には第一次世界大戦期のトルコ人の墓もあります。
城塞を守る塔
城壁沿いに塔が作られています。これらの塔は、街のギルド(職人組合)が責任をもって管理していたため、各塔ごとに、ギルドの名前が付けられています。唯一、鍛冶師塔(Schmiedeturm)だけが、観光客に公開されており、また縄職人塔(Seilerturm)*7には人が住んでいます。
いずれにせよ、城塞都市がどのようにかつて運営されていたのかという仕組みをよく伝える存在です。
おススメのレストラン
Perla:一般的な料理を出す伝統的なレストラン
観光客向けの、質も高くないレストランも多いシギショアラですが、街のふもとにあるPerla(住所:Piața Hermann Oberth 15, Sighișoara 545400)は伝統のあるレストランとしておススメできます。
料理自体は伝統的なものが中心ではないのですが、ピザやハンバーガーといった料理を中心においしいものを提供しています。
Cafe Martini:伝統料理がおいしいカフェ
案内をしてもらった人によると、ルーマニアでは家で食事をすることが多いので、外食産業のレベルはあまり高くはないとのことです。とりわけ伝統的なルーマニア料理を外で食べることはあまりしないそうです。家で自分で作れるからです。
ただ、伝統料理の中心であるスープ類はレストランでも充実しています。そうしたおいしいスープをだべられるお店が街のふもとの公園に隣接しているCafe Martini(住所:Piața Hermann Oberth 42)です。
右の写真のスープには、短冊状に切った牛の胃袋が入っています。
奇抜な料理もリスク高
ちなみに、奇抜な料理も注意が必要です。
私はかつて、ここでしか食べられないと思って、くりぬいたパンの中にスープが入ったものを注文してしまいました。最初の数口はおいしいと思ったのですが、最後まで同じ味なので単調すぎて飽きてしまいました。
ドラキュラの生家のレストラン:完全に観光客向け
また、間違っても、ヴラド・ツェペシュの「生家」の中にあるレストランは入らない方がよいでしょう。「ドラキュラ」という知名度にあやかって値段が高めに設定されており、料理の質と見合っていません。
おススメのカフェ
Medieval Cafe Restaurant:時計塔が見える隠れカフェ
カフェはどこも観光客にあふれていますが、ちょっと路地裏に入ったカフェMedieval Cafe Restaurant(住所:Cositorarului 10)は落ち着いています。
このカフェの中庭から時計塔とそれに併設している学校も見え、おちついて休憩出来ます。
The Bean:本格的なカフェ
また、街の下の路地裏には本格的なカフェを楽しめるThe Bean Specialty Coffee Sighisoara(住所:Octavian Goga)もあります。入り口が狭くてわかりにくいのですが、矢印(写真)の通りです。
最初の箇所で説明をしなかったのですが、街の発展には、I期とII期に続いて実はIII期があります。III期は高台の下に形成された下町地域で、このカフェがある地域となります。
かつてはこのIII期の地域も、城壁があり、要塞化していました。
既製品ではなく、手作りのお土産が売っているお店
街のいたるところに、安物のTシャツやマグカップが売っています。そのため、その土地ならではの手作りのものを見つけるのは至難です。
そのため、ここでは手作りの工芸品を専門に扱っている店を二つ紹介します。
Hotel Sighisoara内にあるお店
Hotel Sighisoara(住所:Strada Scolii 4-6)です。ホテルの入り口(写真左)を入ってすぐ右側にお店の入り口(写真右)があります。
主に、陶器、民族衣装、ワインやシロップ、刺繍の布などが買えます。
Gifty Shop
もう一つのお店は、その向かい側にあります。(住所:Strada Școlii 11)
このお店は伝統的な模様を描く絵画コースも開催していることもあり、伝統模様が描かれた陶器がメインです。ただし、ワインやシロップ、ジャムも買えます。
ドイツ人東方植民の遺産
シギショアラを作ったドイツ人は現在ほとんどいなくなり、ルーマニア人の街への移住を禁止していた法令もなくなりました。
そのため現在では、大多数の住民はルーマニア人となりましたが、いたるところにドイツ語が残っています。また丘の上の学校(II期)ではルーマニア語だけでなく、ドイツ語でも授業が行われています。
このように、ドイツ人が引き揚げてしまっても、「ドイツ」の痕跡は残されています。この痕跡をたどることで、ドイツ人の東方植民*8の歴史を感じるのもトランシルヴァニア地方を旅する醍醐味の一つではないでしょうか。
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*1:Siebenbürger Sachsen。標準ドイツ語ではSachseは「ザ」クセン人と発音しますが、ルーマニアのサクセン語(方言)では、Sは濁らないので「サ」クセン人のほうが正確といえます。サクセン語は単語も発音もオーストリアのドイツ語に近くなっています。
*2:Landler。サクセン語ではLändlerに近い音で発音
*3:Banater Schwaben
*4:ちなみにもう一つの生誕地候補はドイツ・ニュルンベルクです。
*5:観光客が勝手に屋根裏へ入る可能性があるので、屋根裏への入り口は非公開とします
*6:個人所蔵の史料のため、転載厳禁
*7:I期の丘の上の教会の近く
*8:12-14世紀にドイツ語圏から多くの人が東欧へと移住した歴史現象