欅坂46『サイレントマジョリティ―』の歌詞には矛盾と感じられる箇所があります。
その1つが、歌詞の中で思考停止状態の大衆を批判しているにも関わらず、歌っている当人は、歌詞にあるように「似たような服を着て 似たような表情」をしているという点です。
つまり、「歌っていること」と「振る舞い」に整合性が見られないということです。
しかしこのような明白な矛盾に、作詞者である秋元康が気付かないわけがありません。そのように考えると、一見しただけでは矛盾と見られることも、作詞者の意図として解釈するのが自然でしょう。
ではどのようにこの矛盾を解釈できるのでしょうか?
歌詞が批判する「群れ」とは
歌詞の主張
歌詞は、自分の意志を持たず、誰かが作った社会のルールに思考停止のまま従うことを批判しています。
列を乱すなと
ルールを説くけど
その目は死んでいる
という皮肉に満ちた表現や、
君は君らしくやりたいことをやるだけさ
One of themに成り下がるな
ここにいる人の数だけ道はある
自分の夢の方に歩けばいい
という激励にも似た表現は、SMAPの『世界に一つだけの花』 にも似ています。
こうした社会批判がなぜ、ミュージックビデオ公開後の50日以内で再生1000万回を記録というほどの広大な支持を得たのでしょうか?
それは、この曲が歌いあげるような特徴をもつ「群れ」の構成員として生きていながらも、その生き方に疑問を感じる人が多いからではないでしょうか。
「群れ」の特徴
つまり、ここで批判の対象となっている「群れ」とは以下の特徴をもった集団です。
- 人と同じであることに安住している
- 「誰かと違うことに」ためらいをもつ
- 「誰かの後 ついて行」くことで「傷つ」くことを避ける
- 社会のルールに従う
- 「大人たちに支配され」ている
- 夢を見ることを諦めている
- 「人に任せ」てしまっている
- 「初めから そうあきらめてしまっ」ている
これらが自分に当てはまらなくとも、当てはまる人が身近にいることもあるでしょう。ある意味、日本社会自体を「群れ」として批判しているとも受け止められます。
「群れ」の象徴としての欅坂46
欅坂46のメンバーは同じ制服を着て、同じ表情を見せ、同じ髪の色をし、同じような踊りをしています。
彼女たちはまさに、この歌詞が批判する、「似たような服を着て 似たような表情」をした「群れ」や「One of them」を体現しています。
加えて、欅坂46のメンバーはアイドルという多くの少女が憧れる職業についています。「誰もいない道を進む」というよりも、誰もが進みたい、つまり自分を含む多くの人が進みたい「道を進」んでいます。
その意味で、アイドルを目指して、アイドルになった彼女たちの姿は、「誰かと違うこと」を目指すのとはかけ離れており、まさに「群れ」の象徴といえます。
「群れ」の象徴であるからこそ説得力を増す「群れ」批判
『サイレントマジョリティ―』の歌詞を一見すると、「群れ」の象徴であるアイドルグループが「群れ」を批判しているのは矛盾に映ります。
しかし、まさにこのような「見栄やプライドの鎖に繋がれた つまらない大人」の道具であり、「群れ」の象徴でもあるアイドルグループが歌っているからこそ、彼女ら*1による「群れ」批判は説得力を増してくるのです。
当事者ゆえの説得力
これはまるで、何かに失敗した人が、「こういう失敗はしないようにね」と忠告してくれていることにも似ています。
つまりその言葉には、
- 経験による重み
- 自分と同じような境遇にかつていた、というインサイダー感/親近感
が感じられるということです。
それに対して、同じ失敗を経験していない人から忠告をされても、
- 机上の空論のように聞こえ説得力は低くなりがち
- まるで外部の人から忠告されているようで反発を呼び起こしがち
です。
つまり、主題となっている「サイレント・マジョリティ―」(=「群れ」)を体現している彼女たちだからこそ、声も上げずに社会の流れに身を任せっきりの「群れ」を批判しても、「群れ」の中にいる人々から納得感/同朋意識をもって受け入れられるのです。
「欅坂46」というメディア
「欅坂46」というメディアは、社会批判を行うメディアとしては案外有効なのかもしれません。
耳が痛い話もオブラートに包んで伝えることができ、日本社会の内部者(インサイダー)である彼女たちの言葉には説得力も加わってくるからです。
この『サイレントマジョリティ―』という曲についていえば、欅坂46は自分たちが「One of them」だからこそ、この「them」(=「群れ)の中で共感を呼び起こしたのではないでしょうか。
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*1:というよりも秋元康