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元コンサルタントな歴史家―ドイツから見た日本

大学で近代日独軍事史を研究する伊藤智央のエッセイ。ドイツと日本に関する批判的な評論を中心に海外生活(留学や移住)の実態をお伝えしています。その際には元戦略コンサルタントとしての経験も踏まえてわかり易くお伝えできればと思います。

家族が罪を犯した芸能人を責め立てることが間違っている理由

日本 日本-政治・経済・文化

芸能人の家族が犯罪を犯した場合に、芸能人がテレビ出演を自粛したりと責任をと(らされ)る場合が多々あります。芸能人が家族が犯した罪の責任を取って職業上身を引くことをマスコミや一部の国民が望んでいる節もあります。

結論から述べると、親子であれ、夫婦であれ、自立した個人として他人が犯した犯罪の責任を取る必要はないということです。番組降板といった社会生活への圧力は全く荒唐無稽です。

芸能人が連帯責任を負わされた2つの事例

芸能人が家族が犯した犯罪への(道義上の)責任をとらされた例はいくつかあります。2013年には、みのもんたの(成人年齢の)次男が窃盗容疑で逮捕され、みのもんた自身も看板番組への出演の自粛を行いました。

2016年には高島礼子の夫である高知東生が覚せい剤所持で逮捕され、高島礼子に対して夫婦としての責任を問う声が上がっています。

両者への非難を整理すると、みのもんたは子育てに失敗して犯罪を犯すような子どもを社会へ出してしまったという親として責任を述べていますし、高島礼子に対しては、夫婦として夫の異変に気付くべきであったという責任追及が彼女へ寄せられた質問に感じられます。

・みのもんた事件関連の参照記事:
 ①みのもんた氏が「朝ズバッ!」降板で会見
 ②みのもんた次男を再逮捕へ目撃者現る: nikkansports.com
・高島礼子事件関連の参照記事:
 ①【高知東生逮捕】高島礼子会見、一問一答 - 産経ニュース
 ②高島礼子、夫の行為で責任負うべきか? : 日刊スポーツ

責任の内実を探る

責任の間接性

どちらの事例においても、彼らは近親者の犯罪行為を知っていて通報しないという不作為を犯したわけでもないですし、ましては共犯者であったということでもありません。どちらかというと、自分の行為によって犯罪を助長したかもしれない、犯罪を防げたかもしれないという責任です。

つまり彼・彼女が感じている/感じさせられている責任とは犯罪への間接的な責任です。

間接的責任の無限拡張性

しかし、この間接的な責任はその対象をいくらでも拡大解釈できます。

というのも、もし犯罪行為に事前に気付くべきであったという程度の責任であれば、夫の友人や知人も気付くべきであったし、彼の近所に住んでいる人も気付くべきであったでしょう。彼の交遊範囲にいたすべての人に責任があります。

親として犯罪を犯すような子どもに育てたという責任については、子どもの成長に関係したすべての人に責任が拡大可能です。青年期までに交流のあった親戚すべてや、幼稚園の先生、学校での担任教師、バイト先での先輩と限りがありません。

1891年に警官津田三蔵がロシアのニコライ皇太子に切り付けた事件では、全く関係のない女性が詫びの印として自害した例もあります。同じ日本国民として責任を感じただけで何故赤の他人が命をもって詫びるのかと現代の感覚からすると理解しがたい行動ですが、間接的な責任が無限に広がっているという点では、現代の芸能人が責任を感じたり、感じざるをえないように責め立てられることと一致しています。

責任の濃淡を計測する困難さ

もしこのような間接責任によって職業生活が影響を受けざるをないとすれば、関係者すべてが辞職や謹慎するというのでしょうか。

もし責任に濃淡があり、親や夫婦は最も間接的な責任を負うという論理を用いて、彼ら・彼女らだけが仕事を降板すればいいという主張も全く論理的ではありません。

犯罪を犯した人に一度しか会ったことが無い人でもその際に多大な影響をその人に与えたのであれば大きな間接的な責任が生じます。場合によっては、親や夫婦よりも大きな影響を与えているかもしれません。

この例に見られるように、そもそも責任の濃淡を単に近親関係から測ることは論理的とは言えません。

加えて、ある程度影響力があった人物を特定できたとしても、AとBが別々の分野で影響を与えていたとすれば、AとBの間での責任の軽重を特定することも難しいといえます。そのような困難かつ丁寧な解明が必要とされる課題を、裁判官でもないメディアや視聴者が(自己の道義的観念を当てはめることで)行おうというのです。

間接的責任を職業生活と結びつける愚

原理的な観点から

マスコミや視聴者が求める責任とは、多くの場合道義的なそれを意味しています。夫婦とはこうあるべき、親とはこうあるべきという私的関係に関する道徳です。

加えて、当該芸能人が感じる・感じさせられる責任の間接性から、それは法的ではなく道義的なものでしかありえません

道徳上の責任を感じているとすれば、それは彼・彼女個人の内面の問題です。道徳とは一人ひとりがもつ内面の問題であって、外から強制されるものではないからです。

何故個人の内面の問題を、職業上で「けじめをつける」ことで解決したと見せる必要があるのでしょうか。番組を降板したり辞職しただけで内面の反省が出来たと考えるのは筋が違っています。辞職しても反省していない場合もありますし、辞職しなくても十分反省していることもあります。

実際的な観点から

犯罪を犯した人の人格形成にこれまで関係してきた人すべてが多かれ少なかれ間接的な責任を負っていると考えると、どれほど多くの人が該当するのでしょうか。責任の拡張無限性からほぼ無限の数の人が責任を取らざるを得ないでしょう。

その場合に、この無限の数の人々が社会生活において何らかの責任をとらなければならないとするならば、人間の経済・社会生活がうまく機能しなくなります。犯罪が起きるこごとにみんな職を辞したら誰が経済活動を維持するのしょうか。

間接的な責任者に社会生活において責任をとらせることは実際的でもありません

芸能人への道義的責任追及は荒唐無稽でしかない

成人した他者の行為に責任を負う必要はありません。

直接的に関与したのでない限り、責任を負うとしても間接的でしかありません。そしてこの間接的な責任を追及される人の輪は無限の広がりを見せます。

この間接責任に社会的責任が結び付けられたとき、以下の二つの問題が生じます。

  1. 間接性とは個人の良心の呵責という内面の問題にもかかわらず、外的な社会での問題とされるという原理的矛盾
  2. 無限に責任者を拡大し、かつ彼ら・彼女らすべてに社会的な責任を取らせた場合に人間社会の営みが機能不全に陥るという実際的問題

このことから、親類が犯罪を犯したことで芸能人を責め立て、例えば降板にまで追い詰めることは全く荒唐無稽の感情論でしかないことが明白です。

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