ゾンビ映画・ドラマは数多くありますが、そのようなゾンビ系の作品にハマる人がいます。私もその一人です。ゾンビと名の付くものは片っ端から見てきました。
一体「ゾンビ」物の何が面白くてそんなに見てしまうのか?自分の体験を振り返ってみるとその理由が見えてきます。
ゾンビものには一般的に「男性的」と言われる要素が多く含まれていますが、それだけが、ゾンビものの魅力ではありません。
ここではいろいろなゾンビ作品の中から、ゾンビ作品に特徴的な点を挙げてみようと思います。
ホラー:人間を追いかけるゾンビ
ゾンビと聞いて、真っ先に思い浮かぶイメージは「怖い」という感情ではないでしょうか。半分死体のようなグロい姿で本能的に人間に向かってくるゾンビは、感情が読めない分、不気味に映ることでしょう。
こうしたゾンビが大量に出てくるのですから、そうした状況からのサバイバルはアドレナリン大放出なしには見れません。
こうした恐怖的要素を局限化したものに、『28日後・・・』 があります。通常、ゾンビはゆっくり歩くものというイメージがあり、それが彼らの弱点だったのですが、ここでは走ってきます。しかも全力で。ゾンビの前世がアスリートだったら、もう逃げられません。
ここでは追いかけまわされる恐怖を感じることができます。
戦争/「狩り」:敵戦闘員としてのゾンビ
戦争や「狩り」*1の対象としてのゾンビがあります。
ここでは、ゾンビは恐ろしい敵戦闘員でしかありません。とくに主人公が戦闘訓練を受けている場合、それはゾンビ映画というよりも、敵戦闘員をゾンビに置き換えただけで、戦争映画に近いものとなります。
ここでは、主人公=強者の視点に立つことができることから、弱者(=ゾンビ)に対する圧倒的な優越感を感じ取ることができます。
SF:病気としてのゾンビ
ゾンビが発生する原因は様々ですが、1つには生物科学の副産物としてゾンビが生まれることがあります。そのため、ゾンビとの闘いは物理的なものだけではなく、そのための薬を開発することでもあります。
日々のサバイバル生活の中で、そのための実験を繰り返す主人公は戦闘員ではなく、科学者です。ゾンビとの闘いは、科学による戦いでもあります。
『アイ・アム・レジェンド』のように、現実感は出ていいようとも、野生動物が動き回り廃墟となったニューヨークの姿は、現実を忘れさせるような非現実感があります。
その意味でサイエンスかつフィクション的的な世界観を構成する1つの要素としてゾンビが存在しています。
人間ドラマ:引き立て役としてのゾンビ
ゾンビに取り囲まれ、追い込まれた人間は、普段とは別の顔を見せます。ここでは自然や廃墟の中で生活し、ときには人間同士で物を奪ったり殺し合ったりするさまが描かれます。
ゾンビはあくまで、無政府状態を作り出す端役にしかすぎません。中心になるのは、人間の心の動きです。疑心暗鬼の中、それでも他人を信頼したり、または裏切ったり、無政府状態を利用して生き残るために必死で略奪に向かう姿は極限状態に置かれた人間ドラマです。
無政府状態が作り出された原因としてゾンビが存在しています。ここでは、ただゾンビを殺したり、ゾンビを逃げ回るのではなく、「人間とは何か」という問いが中心となっています。
異種間の友情ドラマ:無垢な存在としてのゾンビ
ゾンビを無垢な存在として、ペットが中心の映画のような温かさを感じさせる作品があります。
人間の姿をしながら人間とは異なる存在であるため、人間のように欲望や狡猾さを持ち合わせていないという設定が可能になります。
そうしたゾンビに対して依然として偏見をもつ通常の人間が描かれる一方で、ゾンビの純粋さに気付く主人公が対比されます。「ゾンビ=悪」という「常識」に立ち向かって、差別されるゾンビを擁護するという構図が見られます。
こうした映画では、人間の醜さとは対照的に、ゾンビの純粋さを見ると心が温まります。
ゾンビは柔軟性のある演技が可能
ここまで、さまざまなゾンビの描かれ方があるということを見てきました。
その描かれ方次第でゾンビ系映画・ドラマは、見ている人に様々な感情を引き起こします。ゾンビという存在は人間の姿をしていながら人間ではないように見えるため、人間の良い部分(欲望のなさ)を投影することもできますし、悪い部分(人を食らおうとする傾向)を投影することもできます。
柔軟性のある素材であるために、幅広いジャンルで使いまわしが効きます。これがゾンビものが魅力的な理由なのかもしれません。
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*1:こうした作品では、ゾンビは人間はないと想定されているので、この言葉を使います