元コンサルタントな歴史家―ドイツから見た日本

ドイツの大学で歴史を研究する伊藤智央のブログ。ドイツと日本に関する批判的な評論を中心に海外生活(留学や移住)の実態をお伝えしています。その際には元戦略コンサルタントとしての経験も踏まえてわかり易くお伝えできればと思います

東大法学部「首席」卒業という肩書に騙されてはいけない理由

東大法学部「首席」卒業という言葉をメディアでよく聞くことがあります。

例えば、テレビでの弁護士の(自己)紹介の際において「首席」が宣伝として使われてます。しかし私が卒業したときには、「首席」という言葉は聞いたことがありませんでした。

では、「東大法学部を一番で卒業」とは、具体的にどういうことを意味しているのでしょうか?

東大本郷(卒業式にて)

東大法学部では「首席」は存在しない

私の経験からいうと、そもそも成績の順番が何なのかは発表されていません。

確かに「優」(=A)もしくは「優上」(=A+)が何パーセントかあれば、卒業式で個別に呼ばれて卒業生の全員の前で表彰されます。しかし、成績優秀者は何人も表彰されるため、卒業式で誰が一番かは発表されません。

では法学部において成績の最優秀者がわからないとすれば、どうやって「首席」が決まるのでしょうか。

学部総代=首席?

確かに一般には「卒業式の学部総代=首席」とされます。

しかし、その「総代」になるための基準はあいまいで、はっきりしていません。選考課程が曖昧なことに加えて、「総代」のみ発表され、それに続く「2番」や「3番」は決まりません。

そのため、

  • 順位づけの基準があいまい
  • 1人しか選出されない

ような「総代」になったからといって、という事実をもって、順位を示唆するような「首席/一番」ではありません。首席は存在しておらず、あくまで答辞を読む代表がいるだけです。

そのため、テレビや新聞で東大「首席」卒業という表現を使っているのは、意図的に「天才」を演出するための演出です。

もちろん紹介される方も「首席」と言われれば悪い気がしないため訂正もしないのでしょうが、嘘を野放しにしてまで自分を宣伝している人が「首席」というのも滑稽です。

法学部における優秀者表彰式

「首席」と学問を学ぶことの矛盾

しかしそもそも百歩譲って「総代=首席=成績最優秀者」としたとしても、大学内での試験で優秀な成績を収めたことを、卒業してからも主張し続けることに一体何の意味があるのでしょうか?

大学は学校ではないため、すべての科目で「優」をとったとしても、それは褒められるべきことではありません。に人文・社会科学を大学で勉強する意義は、そもそも他人が決めた基準でいい成績をとるのではなく、その基準自体を疑うことです。

「お勉強」ではなく、「学問」とはそういうものでしょう。

そのため、卒業してからも「首席」という(嘘の)肩書を使い続けている人は大学で何を勉強したのだろうかと疑ってしまいます。

所詮は、

いい成績をとり
  ↓
いい会社に入り
  ↓
世間が憧れる職業につく

という周りの期待に答えるのに精いっぱいだったのかもしれません。

三四郎池(三四郎池にて)

「東大法学部首席」の人は、大学時代に、「学問とは何か」、「なぜ大学に来ているのか」ということを深く考えたことがないともいえます。*1学問とは何かを考えたときに、学問とは、試験で優秀な点数をとることではないからです。

自分の頭で考え、教授の言ったことすら疑う
そしてただ疑うのではなく、それを自分で調べて、論理的な道筋でもって自分なりの考えを持つ

知へのその態度を身に着けることが大学の人文・社会科学で求められているのではないでしょうか。

「首席」というウソの看板を下ろして、中身で勝負してほしいものです。

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*1:私は「首席」ではありませんが、この「首席」への疑問視は別にひがみでも何でもありません。