元コンサルタントな歴史家―ドイツから見た日本

ドイツの大学で歴史を研究する伊藤智央のブログ。ドイツと日本に関する批判的な評論を中心に海外生活(留学や移住)の実態をお伝えしています。その際には元戦略コンサルタントとしての経験も踏まえてわかり易くお伝えできればと思います

トランプ、EU離脱、移民排斥。大衆迎合型政治が支持を受ける理由

近年は、トランプの大統領当選、イギリスのEU離脱、移民制限を唱える政党の欧州での台頭と、大衆迎合型の政治が支持される傾向が続いてきています。

これらの政治に特徴的なのは、既存のエリート層への反抗を掲げていることであり、これまでの政治やメディア報道に対して、自分たちの意見が反映されていないという一般市民の不満を汲みとろうとしていることです。

その際には、「敵」を攻撃するためのレトリックとして、過激であるがより日常的な感覚に近い言葉が使われます。

なぜ、こうした大衆迎合型の政治が支持を受けるのでしょうか?ここではその根本的な原因について探っていきます。

不満をもってデモをする市民

政治と日常生活の論理の違い

政治の論理と日常生活における論理は、そもそもその性質からして乖離していることがあります。つまり、集団の事柄を決める際の視点と、個人の日常を支配している視点は常に同じとは限らないということです。

全体からの視点

一方で、集団の事柄を決定する際には、全体の視点から見た

  • 利益の最大化
  • 正義・公平の確保

という原則が適用されます。

日常生活の視点を政治に持ち込む市民

他方で、それらは、日常生活の中で抱かれる論理とは異なります。つまり、日常生活では、政治のレベルで適用されるのとは違った「利益」や「社会正義・公平」の感覚が通用しています。

しかしそれにもかかわらず、市民はそうした日常生活で抱く、正義・公平に関する個人的な感覚を政治に対しても持ち込むことがあります。

ここに乖離が生じます。

乖離現象が当然のものとして受け入れられない

しかしこの乖離現象は、政治のもつ固有性から考えると当然のことです。

ところが、この乖離が当然であることが多くの人にとっては認識しずらいことがあります。そうしたときに一般市民の間で、「日常レベルからかけ離れた」感覚をもつ政治家やメディアとの間の差異が違和感として感じられ、それが不満として現れてきます。

その不満こそが、大衆迎合型政治が生まれる土壌です。

視点の差が顕在化する4つの争点

政治と個人の感覚の間にズレが生まれてくる具体的な例として、

  • 移民
  • EU離脱
  • 銃規制
  • 難民

といった問題があります。この記事ではまず、これらの事例を基に、政治という集団の論理と、個人の感覚には根本的に差異が存在しているということを見ていきます。

①移民問題

経済全体の視点から見ると

これは日本にも言えることですが、人口が減っていく社会の中で、経済規模を維持しようとしたり、社会サービスを維持しようとしたりするには若い働き手となる移民が必要となってきます。

例えば日本の場合だと、建設業や製造業、または介護の領域で人手が足りていません。加えて、少子化の時代、若者を外から呼び寄せない限り、少数の働き手が年金者を経済的に支えることになります。

つまり、全体の視点から見ると、移民の受け入れは当然であり、合理的選択と言えますです。

日本以外の先進国についても同様のことが言えます。

個人の視点から見ると

しかし、移民の受け入れの是非を個人の視点から捉えると、様相は異なってきます。

例えば、ドイツのいわゆる極右政党であったり、トランプの発言からは、(違法)移民への厳しい姿勢が見られます。ここで見られる個人の論理の特徴は以下の2点です。

  • 異質なものが来るという恐怖感情
  • ドイツ人=「白人」

異質なものへの恐怖

ドイツでも一時期、移民の家庭でドイツ語が話されていないことをやり玉に挙げる論調も見られました。つまり、

「ドイツに来てるんだから、ドイツ語を話せ」

と。

それは、自分たちの文化が、移民の文化によって浸食されていき、最終的に自分たち(米:白人アメリカ人、ドイツ:ドイツ人)は少数派になってしまうのではないかという疎外に対する恐怖に支えられています。

例えば、下の写真は、(投稿した政治家の意図に沿うと)2030年のドイツを表しています。ここでは、ドイツ人の子どもがインド人の集団に囲まれて、「どこから来たの?」と聞かれています。

つまり、ドイツでありながらも、移民が多数派となり、ドイツ人の子どもが少数者扱いされています。*1

これが、移民問題に対して保守派政治家が抱く感覚であり、移民排斥を唱える多くの人にとっては当然の危惧になります。*2

血統に基く伝統的な「国民」理解

「ドイツ人=「白人」」という定義のほうですが、先ほどの例においても、個人レベルの「全体・集団」理解が、経済政策から見た「全体・集団」理解とは異なっていることがわかります。

つまり、個人の感覚における「全体・集団」とは、伝統的な国民意識に基いた「白人」アメリカ人・ドイツ人という集団であり、「ドイツ国籍を保有している人=ドイツ人」というような政治の考える「全体・集団」とは一致しません。

個人レベルの視点から見ると、移民を歓迎する政策は、自分たちの社会に異質分子を受け入れる政策であったり、富を「よそ者」と分け合ったりすると理解され得るため、反発が生まれてくるのは当然です。

②イギリスによるEU離脱問題

経済政策の視点から見ると

国民経済の観点から見ると、EUによる関税障壁の撤廃や労働力の自由化は、イギリスの経済にとって有益です。

多くの銀行がイギリスを拠点にして、そこからEU内での活動を行っていたり、輸出入のための関税事務の負担が少なくなることによる、経済活動への効用は計り知れません。

イギリスの貿易額の50%以上をEU諸国が占めることを考えると、たとえEUへの拠出金が、EUからもらう補助金よりも多くとも、EU残留・離脱の決定は経済的な観点からはそれほど簡単に下せるものではありません*3

個人の視点から見ると

しかし、普通の労働者の観点から見ると、EUから受ける恩恵はあまり見えてきません。

企業主でもない限り、輸出が増加して会社の売り上げが増えようが、もらえる給料にそれほど差は出てきません。

むしろ、他国からの安い労働力や農作物が国内に入ってくることによって、労働者や農家にとってはEUのマイナス面のほうが目につきます。加えて、EUへの拠出によって出ていくお金は、自分たちの税金が遠い他国のために使われる、という不平等感も生み出します。

個人が見る視点と、全体の視点では、このようなズレが生じています。

イギリスのEU離脱の原因となった、労働者が感じる不平等感については以下の記事で詳しく書いていますので、ご参照下さい。

③銃規制の問題

アメリカの銃規制の問題においても、個人の視点から見た場合と、全体の視点から見た場合とでは、「何が最善なのか?」ということに関して差が出てきます。

*ここでは理解を簡単にするために、憲法における銃保持の規定(Amendment II)や、都市と田舎における銃規制への意見差は無視して論じています

個人の視点から見ると

銃規制への反対派の意見においては、個人レベルでの視点が支配的となっています。

というのも、一般家庭で銃を保持しているということが犯罪者を委縮させる効果があるという主張を受け入れると、銃の保持は個人にとって最適な選択です。確かに、誰も信用できない状況では、銃の保持は自分の安全を確保する最適な手段だからです。

銃の保持に関して一般的に4つのシナリオが考えられます。

  • 自分が武装、周りも武装
  • 自分が非武装、周りは武装
  • 自分は武装、周りは非武装
  • 自分は非武装、周りも非武装

もし周りの武装状況を自分でコントロールできない場合や、周りが武装しているのか非武装なのかわからず不安な場合、自分が武装しておくのは、保険を掛けることにつながります。

つまり、少なくとも自分が武装しておくことで、一番最悪のケースである

自分だけが銃を持っておらず、武装した他者が無防備な自分を襲う

という状況は避けることができます。

銃を自分で保持しておくことは、武装した強盗が侵入してくるといった最悪の場合を想定したときの、ある意味ベストなオプションです。

しかし、周りも同じ選択をした場合、つまり他人を信用できずに武装した場合はどうなるでしょうか?

その場合、結局、だれもかれもが武装するというシナリオになります。そして、個人が自分の最適解を選んだ結果生まれるこのようなシナリオは、全体から見た場合の最適解ではありません*4

全体の視点から見ると

全体における最適解は、誰も武装しないという状況です。というのも、先ほどの4つのシナリオ

  • 自分が武装、周りも武装
  • 自分が非武装、周りは武装
  • 自分は武装、周りは非武装
  • 自分は非武装、周りも非武装

のうち、全体から見た最善のケースは、誰も武装していないという場合です。この場合、1人の人間が自動小銃を乱射して短時間に100人を殺すといったことや、銃の扱いを誤った子どもに殺されるということはなくなります。

日本や欧州のように、厳しい銃規制がかかっている場合が、この最善のケースに当てはまります。*5

部分最適は全体最適ではない

個人にとって最適に思える解を選択しても、他の人も同じような選択をすれば、結局は全体にとって最適解にはたどり着けないということです。

*これは、ゲーム理論の「囚人のジレンマ」という状況です。

子どもによる銃の事故

④難民による犯罪行為への対処

難民が犯罪を起こした場合においても、政治と個人レベルで生まれる反応は異なってきます。

個人の視点から見ると

個人の感情に沿って、この問題を理解しようとすると、

客として来ているのに犯罪を起こしているような難民は、不届きものだ。こうした難民は、客としての礼を失しているので、厳罰に処して、本国に送り返してしまえ!

という論理も生まれ得ます。

というのも、難民という政治問題は、「ゲストとホスト」という個人レベルでの関係に簡単に置き換えられて理解されるからです。「ゲストとホスト」、もしくは「おもてなしをする側とされる側」というミクロレベルの人間関係が、難民の受け入れという政治問題に最も「似ている」ように映るからです。

身近な状況から政治問題を類推して、それを理解しようとしています。

政治の視点から見ると

しかし、政治レベルでは、難民による犯罪という問題には別の要素が加わってきます。

それは、

  • 刑罰の公平性
  • 人道上の配慮

という問題です。

刑罰の公平性

情状酌量ということはありますが、ある犯罪を難民が起こそうと、誰が起こそうと、刑罰は同一でなければなりません。

人ではなく、行為を罰している以上、この公平性は守られる必要があります。*6この公平性という観点が欠落したまま、当該国との関係性(外国人か否か)を考慮して刑罰を決定するのであれば、刑罰の執行は単なるリンチ(私刑)となってしまいます。

人道上の配慮

もう一つの観点が、人道上の配慮です。

本国に送還されれば殺される可能性がある難民を送還することは、死刑を言い渡すようなものです。送還してしまえば、(ドイツのように死刑を撤廃している)国家は自己に課している倫理を破ることになります。いわば、倫理的な存立基盤を自ら毀してしまうことになります。

こうした観点を考慮すると、犯罪を犯した難民に厳罰を与え、当然の報いとして何が何でも本国に送還することは、国家としては出来ないことになります。

補足:企業救済の例

これらの事例の他にも、倒産しかかった銀行・大企業への国の援助への賛否の例があります。

経済全体から見ると、これらの企業の救済は、大規模な連鎖倒産をふせぐために当然な措置なのですが、個人の感情から見ると、「なぜ大企業ばかり救済してエリートは助かるのに、中小企業や自分たちは倒産しかかると国は何も援助しないのか?不公平じゃないか」と不満をもって見られます。

日常生活寄りの政治が求められる原因

敏感な争点ほど、視点のズレが受け入れられなくなる

これらの事例のように、個人レベルでの論理と、集団レベルでの論理は、異なることがあります。

この差異は、個人と集団では問題を見ている視点や視野が違うということに起因しており、ある意味、構造的なものです。

しかし、争点が社会にとって敏感なものであればあるほど、この「ズレ」は一般市民に受け入れられなくなります。例えば、難民による脅威であったり、銃規制であったりする問題です。そうした問題は、自分たちの生活と直結するか、自分たちのアイデンティティに関わってくるものです。

こうした視点の「ズレ」が一般市民に受け入れられなくなった結果、政治やメディアという体制を動かす「エリート」への不満が噴出してきます。自分たちの感覚とはかけ離れた「エリート」が勝手に政治やメディアを牛耳って、自分たちの意見が政治に反映されていないという不満です。

ポリティカル・コレクトネスへの反発

この不満の1つの表れが、ポリティカル・コレクトネスを守り通すメディアや政治家への反発です。

ポリティカル・コレクトネスという概念は、あくまで、政治や社会集団の中で使われる用語に関する規制です。そのため、日常生活の感覚からは、当然のことながらズレていることがあります。

というより、ズレていて当たり前です。政治と個人のレベルでは見ている視点が異なるからです。

しかし、このズレを必然として受け入れられない人にとって、ポリティカル・コレクトネスとは、たんなる「真実」を包みかくす「偽善」にしか映りません

例えば、難民による犯罪行為を警察が発表するか否かについて考えてみます。

犯罪行為を報告する警察発表の中で、容疑者が難民であった場合、ポリティカル・コレクトネスの論理に従えば、難民か否かは常に発表される必要はありません。

難民という社会的属性が犯罪行為や捜査の進め方と重大な関連がある場合にのみ、「難民」かどうかは発表されてもいいでしょう。しかしそれ以外の場合、「難民」かどうかは有意な情報ではなく、それを発表することは犯罪者のプライバシーを不必要に世間にさらしてしまいます。

しかし、必要性がなければ社会的属性を発表しないという考慮は、一般市民の感覚からすると、「警察が難民をかばいすぎている」と感じられます。

政治の論理ではなく、日常の論理を取る政治家が支持される

トランプやイギリスのEU離脱派、ヨーロッパで移民排斥を唱える政党は、こうした不満を巧みに吸い上げていきます。

つまり、これらの政治家は、日常生活の感覚に近い言葉で、彼らを代弁していきます。そのためこれらの政治家は、「新しいタイプ」の政治家と映り、既成システムの打破を期待する一般市民から支持を受けていきます

「体制」側の人間としてヒラリーが認識され、自分たちの悩みを代弁していると認識されたトランプが大統領選に勝利したことは、その典型でしょう。

政治というものの論理を無視した形で、日常の論理に適った発言を繰り返す政治家が、「政治」というものの独自性を理解しない層の支持を取り付けたことが、ここ数年のうちに大衆迎合型政治が台頭してきた構造と言えるでしょう。

関連する記事

*1:Erika Steinbach: "Es ist kein aggressives Foto" | ZEIT ONLINE

*2:"Kinder statt Inder"(「インド人よりも子どもを」)というドイツ保守政党の選挙スローガンも、同様の感覚から生まれてきています

*3:参照記事:EU referendum pros and cons: Should Britain vote to leave Europe? | EU referendum news | The Week UK

*4:参照記事:Gun Control - ProCon.org

*5:猟銃の所持の可能性はわかり易さのために除外して考えています

*6:法学に弱いので、おかしな箇所があれば指摘してください。犯罪現実説と犯罪徴表説の違いは理解しています