元コンサルタントな歴史家―ドイツから見た日本

ドイツの大学で歴史を研究する伊藤智央のブログ。ドイツと日本に関する批判的な評論を中心に海外生活(留学や移住)の実態をお伝えしています。その際には元戦略コンサルタントとしての経験も踏まえてわかり易くお伝えできればと思います

30年間ドイツの会社で働いてきた私の「履歴書」。ドイツで働くことの現実

「ドイツで働くことはxxだ!」

といった断定的な情報がネットには氾濫していますが、ほとんどの情報は、多くて数年程度働いた経験をもとにしています。長期の職歴に基づいた体験談はなかなか見当たらないものです。

そのため今回はドイツで長年生活されているSueさんに、ドイツで歩まれて来た半生を、会社員生活を中心に振り返っていただきました。苦労話のなかにも前向きなお人柄がにじみでています。ドイツで生活し、働くということはどういうことなのかが追体験できる文章となっておりますので、お楽しみ下さい。

なお、以下の写真はすべてSueさんからいただいた実際のオフィスの写真です。

ロビー写真

----------     以下、Sueさんからの寄稿文     ----------

今回、私のドイツでの経験を伊藤さんのブログに書かせていただけることになり、さて、私に何か語るべきことがあるのだろうかと考えてしまいましたが、若い方たちには直接役に立たなくても、私のようなものでもドイツで生活を築くことができるのだという参考程度になればと思い、自分の体験を振り返ってみることにしました。

日本の独系化学メーカーに新卒就職

私はもともとドイツ文学科出身で、卒業後、日本にあるドイツ系化学会社に就職しました。今から考えても笑ってしまいますが、採用の際のドイツ人マネジャーとの面接で、出てきたドイツ語は、

「私の名前はxxxxです。」
「英語で話してもいいですか?」

という2文だけだったのです。

4年間の独文の成果がそれとは!

ドイツ語の知識のない人に比べれば、もちろん文法や語彙の知識はあったにせよ、とにかく私のドイツ語は実践で使えるレベルからは程遠かったといえます。

その会社にはその後、3年ほど勤めましたが、上司になった日本人部長がドイツかぶれ?していて、2週間程度まとまった休暇を取らせてくれて、毎年ヨーロッパに旅行できたのを別にすれば、格別に面白い仕事でもありませんでした。そのため、次第に「このままではいけない」と考えるようになりました。

そうした考えから、アメリカかドイツかどちらかに留学しようと調べ始め、コストの面からドイツを結局選択しました。次に留学できそうな大学を調べて、マインツ大学の夏期講習に申し込みました。

このときから、私の本格的なドイツ人生が始まったのです。

1990年のことでした。

現地でドイツ語を勉強する大変さ

ドイツの大学で勉強するためには、外国人学生はまずPNDS(現在ではDSH)と呼ばれる語学試験に合格しなくてはなりません。

この試験のために半年勉強したのですが、これは大学の時の試験とは比べ物にならないくらい大変だった記憶があります。ある程度長さの文章を聞いて、それを自分の言葉で書き換える等、ただ翻訳すればよいというような訓練ではなく、かなりきつく感じられました。

しかし、これに合格して、いざ大学で勉強できるとなった時に、よく考えてみれば、「今からまたドイツで勉強したいわけじゃないんだよな」と気づいたのです。

ドイツの日系企業のメリット

もともとフランクフルトにアパートを借りていたのもあって、フランクフルトの日本商工会議所に求職の広告を出したところ、それが偶然、日系の液晶メーカーの目に留まり、面接となりました。

今ではよく知られているように、ドイツは資格社会*1で、それがないとなかなか就職も難しいのは今も昔も事実です。

私は独文出身で、ドイツで就職に有利な資格は何もなかったわけですが、日系の会社の目に留まったことで、日本での学歴を見てもらえて、そこはラッキーでした。しかも、考えもなしに応募していたポジションは、これまで経験のない、ドイツ市場担当のセールス・アシスタント。今考えてみればずいぶんと大胆なことをしたわけですが、まあでも、何かを始めるときには考えすぎず、「あたってくだけろ」的なところがないといけないのも確かですよね。

とにかく、無事にその会社にセールス・アシスタントとして採用になりました。その上、学生ビザで来ていたのにもかかわらず、ラッキーなことに労働ビザへの書き換えもしてもらえたのです。

初めてのドイツでの仕事

ところが、働き始めて愕然としたのは、それまで勉強してきたドイツ語の語彙が、仕事には全然足りなかったということでした。

同じチームで働くことになるドイツ人の若い同僚女性が仕事内容を説明してくれているのに、彼女の話している内容が理解できず、-例えば「納品書」などという単語はドイツ文学には出てこなかったのですね(笑)-仕方がないので、説明を聞きつつわからない単語は必死にノートに書きとっておいて、その後、調べるということをしばらく続けました。

また実際に仕事をしてみると、納期などについて顧客や工場と電話でやり取りをしなくてはならないのですが、ドイツ語で、しかも液晶などという知らない分野の技術的問題や納期の苦情などについて、電話でやり取りするというのは、はじめはなかなか苦痛でした。仕方がないので、とにかく意味はわからなくても工場や顧客の言うことをなんとか覚えて、それを相手に伝える、という努力をしていたのです。

それでも、なんでも慣れるもので、そのうちに、いかに顧客の納期を守れるように工場とやりとりするか、場合によっては別の同僚のキャパをとりあげても、自分の顧客にそれをあてる、といったようなやり取りを楽しめるようになってきたのです。この仕事をしたおかげで、2つの点で私のキャリアのプラスとなりました。

1つ目は、「外国人だから・・・」と引っ込み思案になることなく、いかに人とうまく渡り合うかを学ぶことが出来たことです。それは、ドイツ人の同僚たちと対等に付き合える(別に夜お酒を飲みに行くとかそういうことではなく)ようになったことにも表れてきました。

2つ目は、セールス・アシスタントというキャリアを履歴書にも書けるようになったことです。これが次の仕事につながっていきました。

残念ながら、この会社は3年後にすべての拠点を、すでに工場があった別の街に移すことになり、フランクフルトから引っ越す気のなかった私を含め、多くの社員が転職活動を余儀なくされました。

しかし、この時にドイツ人同僚とよい関係を築けていたことで助かりました。というのも、ドイツでは転職の際には魅力ある履歴書を提出するのはもちろん、前職からのレファレンス(どのような仕事内容であったのかや、勤務態度が書いてある)をもらって提出するのですが、履歴書にもレファレンスにも、色々とトリッキーな書き方、表現の仕方があり、そういったものを同僚同士で助け合って作成したり、私の場合にはそうした書類をすべてチェックしてもらったりと、次の転職に向けてしっかりと準備できたのです。

そして、当時のことですから、また商工会議所にも求職の広告を出しておきましたが、そのほかにも新聞広告の求人欄を見て、そしてこれまた偶然に、日本の合成化学繊維・合成樹脂の会社がセールス・アシスタントを募集しているのを発見・応募したところ、採用され、無事に転職することができたのです。

日本の会社の今の事情はよくわかりませんが、この会社もアシスタントとはいえかなりの裁量をまかされていました。私は合成繊維の担当でしたが、上司とヨーロッパの顧客をまわることから、マレーシアの工場、香港のエージェント訪問といったように、一人で海外の出張にも行っていました。欧州内での考え方の違いや習慣の違いだけでなく、マレーシアという多文化国家の人達と密に話ができたのは、本当に良い経験だったと今でも思います。

マレーシアでは、主に中国系、インド系、マレー系の人々が社会を構成していて、一般的には、その順番で社会の中の力関係ができていました。ですから、いくつかの部署の、違うポジションの人達と話していると、民族的な競争心や優越感・劣等感が垣間見えたり、そのためにかえって、日本人の私には正直に色々話してくれたりと、興味深いことでした。また、多民族国家であるがために、ほとんど誰でも3か国語以上できるのは当たり前で、英語だけでもあたふたしている日本人との違いに驚いたものです。

その他にもフランクフルトでのメッセに展示する際の設営やアレンジも任されましたので、業者との打ち合わせから、マレーシア、タイなどから来る工場の人達や顧客とのアレンジ、食事の設定など、今思い返せば、体力があったのだなぁと思ってしまいます。

ドイツでは残業はないのか?

ドイツでは残業はしないという話を聞くことがありますが、それは常に正しいとは限りません。この会社の就業時間はおそらく40時間くらいだったはずですが、必要とあればアシスタントの女性たちも平気で延々と残業していました。

すでにフレックスタイムは導入されていましたが、仕事を任されるようになれば、「定時だから帰ります」というのはあり得ないわけです。ただし、残業代をもらっても税金でとられるだけなので、仕事が一段落して余裕ができれば、誰でも早く帰ったり、代休をとったり、そういう意味で仕事の仕方はきっちりしていました。日本で仕事をするよりは気分的には楽だといえます。

確かにチームの人が早く帰ってしまったり休んでしまえば、自分が一時的に大変になることはありえるわけですが、次は自分が休めるとわかっているので、「お互いさま・・・」という精神があるのです。

日本へ帰国

さて、この会社での仕事は本当に面白く、辞めたいと思ったことは一度もなかったのですが、日本にいる親が「帰って来い」とあまりにうるさくなり、当時のパートナーが「日本に行ってみたい」と希望していたので、残念ながら4年ほどで退職して、日本に帰国することにしました。この時までにおよそ7年半フランクフルトで生活したことになります。

日本では、ドイツの商工会議所を通じて転職活動をしました。結局、ドイツの公共放送のアシスタントというポジションを得て、出産を経験しながらも長いこと勤めました。
ここでは、ジャーナリストである支局長と私しかいない仕事場でしたので、番組のテーマ、テーマにあったインタビュー相手のリサーチ、インタビュー相手とのアポの設定、そしてインタビューとなれば通訳(後には一人でインタビューに行くこともありました)、原稿の書き起こし、あとはオフィスワークなど、なんでも屋のように仕事をこなしました。

ドイツ人が知りたいテーマは、日本で普通に生活していれば気づかないようなことだったり、また、普段は会えないような人々にもインタビューできたりで、なかなか充実していたと今でも思います。そして、その当時はまだそれほどインターネットが発達していなかったので、今振り返れば、いったいどうやって各テーマのインタビュー相手を探し出していたのか、自分でも感心してしまいます。

このように面白い仕事でしたが、、子供の教育のことなどを考えて、10年たったところでドイツに戻ることを決心して、各州の経済事情などを調べた結果、2007年にミュンヘンに引っ越しました。

ミュンヘン時代

ミュンヘンでは、まずは求人を出しているかどうかに関係なく日系企業などに履歴書を送ってみましたが、そういうやり方だと、よいポストがあいているかどうかもわからないのであまり効果的とは言えません。そのため、ネットで人材仲介会社に登録したり、職安に相談・登録したりという方法でも求職活動をしました。

この時には次の仕事が見つかるまで半年ほどかかりました。すでに40代になっていたこともあり、「年齢の問題ですかね」と職安の人に相談したら、「そんなこと全然ないですよ」と笑い飛ばされたのが記憶に残っています。

結局、白物家電製品の販売会社に、セールス・アシスタントとして就職することができました。この会社では、販売・納品だけでなく、購買などと密にやり取りをして、いかにお金を回すかなどを経験でき、視野が広がりました。

ただ、この会社は小規模で、かなり早い時点で経済的に安定していないことが判明したことに加え、正直、経営陣達の人柄に疑問点がかなりあり、この会社には長くはいれないなというのもはっきりしてきていました。

ただし、色々問題があったにせよ、そこは日本人らしく、仕事は仕事としてきちんとこなし、嫌な経営陣にも、表面的には友好的に応対していたのが、後で良い結果となりました。

というのも、この会社に在職中も人材紹介会社とはコンタクトをずっと取り続けていて、2年近くたったところで、現在勤務している会社のポストのオファーがあり、転職できることになったのですが、その際、この販売会社の経営陣からのレファレンスが予想外に素晴らしいもので、正直驚いてしまったのです。なにせ、社長といわれていた人物は、「転職していく人たちの転職先に電話をして、ネガティブなことを吹き込んだ」などという噂のあった人物だったのです。とにかく、この家電販売会社では、その後、ずっと友人として付き合えることになる人たちと知り合えたのはよかったのですが、転職できてほっとしたのは確かです。

さて、現職ですが、これは日本企業のドイツの子会社で、ここが他の欧州のグループ会社の統括となっています。私のポジションは、日本から来る駐在者のサポート、他にも経営陣が日本とかかわりあう時のサポートなど、リエゾン的なものとなります。実は、自分ではこうした仕事をやりたかったわけではないのですが、会社の経営状態のせいでまた転職活動はしたくないし、ここであれば安定しているかと考えて応募したのです。

面接のときに、日本からの駐在者が2人ほど同席していたのですが、のちに親しくなってから、私は他の応募者と比べて、若くてかわいい女の子ではなかったけれど、頼りになりそうだから採用を決めたと聞いて、笑ってしまいました。随分失礼ですよね!まあ、事実でしょうけれど。

この会社では週37,5時間労働フレックスタイム一定日数のホームオフィス年間30日の休暇もし休暇がすべて1年の間に取れなければ3月末までの持越し、もしくは生涯口座?とでもいうのでしょうか、未消化残業時間や休暇日数をためておいて、年金生活をその分だけ早めることができる制度などが完備されています。

実際のオフィスの様子

私の仕事内容は、リロケーション的なものから、駐在者の家族を含めた相談役のようなもの、また駐在者のために社内の各部署との調整など広範囲にわたるので、ある意味、今までの経験がうまく生かせるとも言えます。

大家や役所とのトラブルなどを含め、何かあったときの解決策をひねりだすために、たまにはドイツ人同僚たちがぎょっとしたような目で見るのも構わず、電話で脅したり、喧嘩したりもしますし、反対に友好的に相手を取り込んで、どうにかトラブルを収めるなどということもあります。何が起こるかわからないだけに、経験をもとに柔軟に対応することが求められます。そういう面でなかなか面白くもある反面、会社に間接的な貢献しかできないわけですから、取り残されているような気分になることもあるのは事実ですが、それでもすでに10年勤めています。

安定しているのかどうかは、今の時代ですからなんとも不透明になっていると感じますが、でもそれを私が変えることはできないですし、せいぜい今後も物事に柔軟に対応していくしかないと思っています。

オフィスの飾られた絵

(オフィスに掛かっている絵画)

30年近くドイツと関わりあって感じる、最も重要なこと

求職活動の方法など、時代とともにどんどん移り変わるので、私の体験は、これから求職活動をしたい人たちの直接の参考にはならないかもしれません。ただ、20年近く(日本での経験も含めれば30年近く)ドイツで働いてきて言えることは、やはり海外で働き、生きていくためには、コミュニケーション能力が重要だということです。

英語や自分が生活している国の言葉を習得するのは当然必要なことですが、語学だけの問題ではありません。私が考えるコミュニケーション能力というのは、必要最低条件の語学能力を踏まえて、人とオープンに柔軟に対話するということです。そのためには、わからないことは正直に聞く、また伝えるべきものを自分の中に持つということが大切です。ただし、外国語を話しているのですから、完璧でないのは当然と考えて卑屈になることはないと思います。

たまに、私はドイツ語が下手だから馬鹿にされたとネガティブになっている人がいますが、そのように感じることでプラスになることはあまりないのではないでしょうか。奮起してもっと語学の勉強をするなら別ですが、というかそれは必要でしょうけれど、他人は自分のことをそれほど気にかけていないものですから、不必要にネガティブなことは忘れたほうが楽です。コミュニケーション能力に加えて、余計なことはあまり気にしない、ある意味ずぼらな心持ちも大事かと思います。

ネットが発達したことによって、海外に出るハードルは30年前に比べれば大幅に低くなりました。SNSがあることで、海外に出たからと言って孤独を感じなければならないことも少なくなったわけです。せっかくこういう環境になったのですから、チャンスがあれば海外に出てみることは悪くないですし、それによって、自分や日本を客観的に見ることもできるようになると思います。もちろん、海外で生活したり仕事をするということは、「行ってみればどうにかなるさ」みたいな簡単なものでないことも多いわけですが、必要な努力をすれば道は開けるものです。

最後に挙げておきたいのは、日本とドイツを行き来して、その際に仕事よりも家族を優先したために、キャリアが途切れてしまい、例えばセールスの部門でもっと責任あるポジションまで行けなかった、もしくはジャーナリズムの分野で、もっと面白い方向に進めなかったというマイナス点はあったということです。結局、何を優先するかで、人生変わってきてしまいますね。

私の体験が、ドイツに来てみたいという方々の少しでも参考になれば嬉しい限りです。

(編集:伊藤智央)

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*1:詳しくは以下の記事で説明しています。

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