30過ぎると顔に責任を持てということをどこかで聞いたことがあります。
見てくれについて、30歳ぐらいまでは遺伝の要因が大きく個人の意思ではどうしようもないが、それ以降は、どのように人生を生きてきたのかが顔に表れてくるためどのような顔をしているのかに対しては責任が伴うというものです。
これ自体の真偽はさておいて、どのように生きてきたのかということを重視している点には共感できます。
私自身、「どれだけの年月(How long)を生きたのか」(=年功序列型思考)ではなく、「どのように(How)生きたのか」が重要と考えているからです。
その理由を、
- 人の能力形成において生き様が重要であるという積極的事実
- 年を取るにつれ年齢はその重要性を失うという消極的事実
の2つの点から説明していきたいと思います。
*以下、私の個人的な意見です
論点①生き様(=How)の重要性
例えば仕事の面でいうと、いくら歳を重ねている人でも頭の切れない人はいます。
歳をとるということは多くの活動をしてきたということですが、これまでの活動の内容、及びその活動をどのように消化して次の活動へとつなげてきたのかによって、能力にずいぶんと差が出てきます。
ここでは以下のようなサイクルを想定しています。
①ある活動を行う
↓
②振り返る
↓
③何かを得る
↓
④次の活動を行う
この中でもとりわけ「②活動の振り返り」は極めて重要です。それによって、「③ある活動を通して何が得えられるのか」、そして「④次にどのような活動をするのか」が決まってくるからです。
「②活動の振り返り」が重要であることを明確にするため、以下数式で、ある時点における人間の能力を表してみようと思います。複雑でわかりにくいので、赤字を数式に含む箇所の後の「要するに」という見出しまで飛んでいただいてかまいません。
E | Experience | 消化して得たもの(上の図の③に該当) |
A | Activity | 活動(上の図の①と④に該当) |
C | Capability | 人物の能力 |
x | - | どのように消化するのか(上の図の②に該当) |
y | - | 変数 |
アルファベットの横の小さな数字 | - | 第n回目の時点 |
上のように表記すると、n回活動を繰り返してきた人間の能力は以下のように数式で表されます。
仮定①
人間の能力は、活動を消化してそれまでに得たものの総和
n時点における人間の能力
= Cn
= これまで消化して得たものの総和
= Σ[k=1→n]Ek
= E1 + E2 + E3 + E4 ・・・+ En-1 + En
仮定②
どのような活動を選択するのかは、それまでの能力によって影響を受ける
n回目の活動
= An
= Cn-1 × yn-1
= Σ[k=1→n-1]Ek × yn-1
= yn-1 (E1 + E2 + E3 ・・・+ En-2 + En-1)
仮定③
消化して得るものとは、活動をどのように消化したかによって決まる
n回目の活動で消化して得たもの
= En
= An × x
人間の能力を数式で表すと
前提①と②と③を踏まえると、ある人物の能力は以下のようにあらわすことができる。
時点nにおける人間の能力
= Cn
= これまで消化して得たものの総和
= Σ[k=1→n]Ek
= E1 + E2 + E3 + E4 ・・・+ En-1 + En (仮定①より)
= A1 × x + A2 × x ・・・An × x (仮定③より)
= x (A1 +A1 + ・・・+An)
= x × (C0 × y0 + C1 × y1 + C2 × y2 + ・・・+ Cn-1 × yn-1) (仮定②より)
= x × (E0 × y0 + E1 × y1 + Σ[k=1→2]Ek × y2 + ・・・+ Σ[k=1→n-1]Ek × yn-1)
= x × (A0 × x × y0 + A1 × x × y1 + Σ[k=1→2]Ak × x × y2 + ・・・+ Σ[k=1→n-1]Ak × x × yn-1)
= x^2 (A0 × y0 + A1 × y1 + Σ[k=1→2]Ak × y2 + ・・・+ Σ[k=1→n-1]Ak × yn-1)
要するに
複雑になっていますが、要するに x (= 活動をどのように消化していくのか)という変数が乗数を伴って存在していることに注目してください。(数式の赤字部分)
これは、どのように活動を振り返るのかが能力形成に重大な影響を及ぼしているということを意味しています。
論点②年齢が上がるほど、時間のもつ重みは減る
どのように活動を振り返り、それを血と肉にしてきたのかが重要であることを述べてきましたが、一方で、年齢を重ねていくにつれ年齢の差異は重要性を失っていくということも事実です。
それは年齢が上がるにつれ、1年という年月が人生の中でもつ重みが相対的に低くなっていくことにも表れてきます。
子どもの時には年齢は知的発達においても体力においても決定的かもしれません。何せ、1歳児と2歳児の差は、生きた時間が倍違ってくる( = 2 ÷ 1)ということです。
それに対して同じ1歳差であって、40歳と41歳の差であれば、41歳の人は40歳の人よりも2,5%(= 40 ÷ 41 )長く生きているだけです。こうなると、40歳でも41歳でもほぼ同じ長さの時間を生きていると言い切っても差し支えないでしょう。
つまり、歳をとればとるほど、年齢差は相対化されてくるということです。
結論:基本的に大人同士は対等
当たり前かもしれませんが、上に挙げたような2つの考えから、私は20歳あたりを過ぎて大人になれば人間は基本的に対等だと思っています。
対等といっても、さまざまな領域で自分より優れている人には、その領域に限って敬意を払います。仕事上でいえば、年齢が下でも能力のある人には敬意を払います。しかし、仕事を離れれば、その限りではありません。もちろん人として敬意を払うということは当然ですが、仕事上の事情をプライベートに持ち込むことはしません。
そのため、私は能力(至上)主義者ともいえるのかもしれません。
大人になってしまえば年齢というのは一つの属性にしかすぎません。確かに、年齢というのは計測しやすい属性で、他者とも比較が容易です。しかし、重要なことは中身です。
1つの属性、しかも重要とは思えない属性だけで人を判断するのは、無駄なことでしょう。